レオポルド・ガルチェリ
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レオポルド・ガルチェリ(レオポルド・フォルテュナト・ガルチェリ・カステッリ、ガルティエリとも、Leopoldo Fortunato Galtieri Castelli、1926年7月15日-2003年1月12日)は、アルゼンチンの元大統領でアルゼンチン陸軍の司令官。
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[編集] プロフィール
[編集] 軍人時代
イタリア系移民の家に生まれ、17歳の時にアルゼンチン軍の士官学校に入学する。その後ファン・ペロン政権崩壊後の政治的混乱の中で複数の軍事政権によるクーデターにかかわり、1980年にはアルゼンチン陸軍の司令官に就任する。またこの様な中でガルチェリは、1970年代に軍事政権によって行われた「汚い戦争」と呼ばれることになる元大統領派の弾圧を実質的に指揮していくことになる。なお、この弾圧の中で同国民約3万人が犠牲になったと言われている。
[編集] 大統領就任
1981年12月にガルチェリは同国の大統領に就任するが、この様な状況から国民の目をそらせる目的もあって、1982年に入り、長年イギリスが実効支配していたアルゼンチン南部沖にあるマルビナス諸島(フォークランド諸島)に対する領有問題をクローズアップさせた。これを受けアルゼンチン国内ではフォークランド諸島問題が過熱ぎみになり、民衆の間では「政府がやらないなら義勇軍を組織してフォークランド諸島を奪還しよう」という動きにまで発展した。
[編集] マルビナス(フォークランド)戦争
同年4月にガルチェリはアルゼンチン軍による攻撃を命令し、まもなく同諸島最大の都市のポートスタンリーを占領し、その後の戦闘でもアルゼンチン軍機が多数のイギリス海軍艦艇を撃沈し戦いを有利に進めたものの、一部の中南米諸国と東側諸国以外の殆どの国際社会からの非難を受けた上、イギリス軍が長距離爆撃機による空爆や陸戦、同盟国であるアメリカの援助を得た情報戦を有利に進めた結果、6月14日にイギリス陸軍部隊がポートスタンレーを包囲しアルゼンチン軍が降伏し敗北した。
[編集] 失脚
その後6月16日にアルゼンチンの外務大臣と内務大臣がガルチェリに抗議し辞表提出し、翌17日にガルチェリが敗北の責任を問われ失脚し、大統領及び陸軍総司令官を辞任した。
1983年には軍事法廷で「汚い戦争」とフォークランド戦争における敗北の責任を問われ、陸軍における地位を降格された上に1986年5月に収監された。その後1991年にカルロス・メネム大統領により恩赦を受けるまでの5年間を監獄で過ごした。2002年7月にも民事訴訟を起こされ有罪を宣告されたものの「健康状態の悪化」を理由に自宅軟禁処分となり、2003年1月に癌で死去した。
[編集] 関連項目
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