ホーランド・スミス
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ホーランド・マクテイラー・スミス(Holland McTyeire Smith、1882年4月20日 - 1967年1月12日)はアメリカ海兵隊の軍人、最終階級は大将。
[編集] 生涯
スミスは1882年4月20日アメリカ合衆国アラバマ州で生まれた。有名な弁護士だった父親の影響で1901年にアラバマ工大卒業後アラバマ法律学校で2年学び弁護士の資格を取得するも法曹界が肌に合わず軍人を志す。はじめは陸軍志望であったが受験が難関と知り海兵隊に転向、受験に合格すると1905年に少尉任官。1939年に准将に昇進し、第一海兵旅団長となる。1941年2月に第一海兵師団の初代師団長となり、6月には大西洋艦隊所属の第一軍司令官となる。指揮下には第一海兵師団と陸軍第一・第三歩兵師団が存在していた。太平洋戦争が勃発すると1942年5月にアレキサンダー・A・バンデクリフト指揮の第一海兵師団がスミスの指揮から離れ太平洋方面ガダルカナル島に投入される。8月にはスミスも太平洋戦線に移動、太平洋艦隊所属の上陸司令官となる。アッツ島攻略作戦に観戦武官として参加の後ギルバート・マーシャル諸島の戦い・サイパンの戦いの上陸軍を指揮した。サイパン島の戦いの折、進軍の遅く士気の鈍った陸軍の第27師団長ラルフ・スミス少将を更迭する「スミス対スミス事件」が発生している。これにより連合国軍太平洋方面軍司令官チェスター・W・ニミッツ大将の不興を買い、グアム島・テニアン島の指揮から外され、硫黄島の戦い・沖縄戦共に声が掛からず、自殺を心配されたほどであったという。1945年9月2日の戦艦「ミズーリ」での日本降伏調印式において、幕僚からニミッツにスミスを出席させてはどうかと進言があったがニミッツは拒否したという。1946年5月に退役、大将に名誉進級した。1948年に自叙伝を執筆、ベストセラーとなる。1967年1月12日にカリフォルニア州サン・ディエゴの海軍病院で死去、84歳だった。
[編集] 人物
荒っぽい性格ですぐに怒鳴ることから「ハウリング・マッド」(わめき散らす狂人)と呼ばれた。弁護士という屁理屈と論争を家業とした家庭の出身だけに周囲との摩擦が絶えなかった。上陸作戦を巡っては上陸艦隊を指揮していたリッチモンド・K・ターナー海軍中将とは権限範囲などを巡ってしょっちゅう怒号の応酬が繰り広げられてた。陸軍とも険悪で「スミス対スミス事件」の折、太平洋方面陸軍司令官リチャードソン中将から面前で「君らは波打ち際を走るただの集団ではないか。陸上での戦闘を知っているのか。君ら指揮官は陸軍将官のように大部隊を指揮する訓練を受けていないし、その能力も無い」と、罵倒された。ダグラス・マッカーサー陸軍大将らは「海兵隊は蕃地で原住民と戦うくらいしか能力のない特殊な武力小集団」と見下しており、海兵隊は陸海軍としっくりいっていなかった。そのため当時の海兵隊総司令官であったトーマス・ホルコム中将は、どんな高官が相手であっても海兵隊の考えを貫いてくれると、期待を寄せていた。海軍でもレイモンド・A・スプルーアンスは高く評価しており、ギルバート・マーシャル諸島の戦いにはスミスのような男が必要だとして、当時スミスの上官だった南太平洋方面軍司令官ウィリアム・F・ハルゼー大将に頼み込んで転属させてもらった程であった。のちに沖縄戦で日本軍の神風特攻によって海軍の被害が増すにつれてスプルーアンスは「陸軍航空隊の連中は恐怖のあまり、高高度でロクに当たりもしない爆弾を落とすだけで役に立たない。ホーランド・スミスのような勇猛な男が指揮官だったらこれほど苦労はしなかったであろう」とぼやいたという。