ベラ・チャスラフスカ
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オリンピック | ||
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女子体操競技 | ||
金 | 1964 | 個人総合 |
金 | 1964 | 跳馬 |
金 | 1964 | 平均台 |
金 | 1968 | 個人総合 |
金 | 1968 | 跳馬 |
金 | 1968 | 段違い平行棒 |
金 | 1968 | ゆか(同時金賞) |
銀 | 1960 | 団体 |
銀 | 1964 | 団体 |
銀 | 1968 | 団体 |
銀 | 1968 | 平均台 |
ベラ・チャスラフスカ(Věra Čáslavská 1942年5月3日- )はチェコスロバキアプラハ出身の体操選手。実際の発音はヴィェラ・チャースラフスカーに近い。
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[編集] 人物像
1964年の東京オリンピックで、チャスラフスカは人気選手となる。平均台、跳馬と個人総合の金メダルに加え、団体でも銀メダルも手にした。
1968年のメキシコオリンピックでは、跳馬、段違い平行棒、ゆかと個人総合で金メダル、平均台と団体種目で銀メダルと、女子体操の6種目すべてでメダルを獲得した。
メキシコオリンピックでの競技が終了してまもなく、チャスラフスカは、東京オリンピック男子競泳1500m銀メダリストのジョゼフ・オズロジル(Josef Odložil)と結婚する。
チャスラフスカのメキシコオリンピック参加は、政治的事情のため非常に危ぶまれていた。彼女は1968年のチェコスロバキアの民主化運動(「プラハの春」)の支持を表明して「二千語宣言」に署名しており、同年8月のワルシャワ条約機構による軍事介入、プラハ侵攻によって身を隠さざるを得なかったのである。
メキシコオリンピックはプラハ侵攻の直後であり、彼女はオリンピック直前にようやく出国を許可された。また、ゆか競技の判定においても、この政治的事情の影響か、金メダルは微妙な判定によってソビエトの選手とダブル受賞となった。平均台のメダル授与式においては、金メダルを獲得したソビエトのナタリア・クチンスカヤ(Natalia Kuchinskaya)の受賞の間、チャスラフスカは顔を背けることで抗議の意を示した。
その後もチャスラフスカは「二千語宣言」への署名撤回を拒否し続けたので、チェコスロバキアの「正常化体制」時代、チャスラフスカは非常に困難な状況に置かれ続けた。
1989年11月、ビロード革命によって共産党体制が崩壊すると、チャスラフスカはハベル大統領のアドバイザー及びチェコ・日本協会の名誉総裁に就任した。大統領府を辞した後には、チェコオリンピック委員会の総裁も務めている。
公的にはチャスラフスカの名誉は回復されたが、私生活においては不幸が続いた。正常化体制の時代に離婚したオズロジルが、次男とのトラブルの末に死亡するという事件も起こっており、現在はうつ病の治療のために入院中と伝えられる。
[編集] 参考文献
- 「ベラ・チャスラフスカ 最も美しく」ISBN 4163660208
[編集] 関連書籍
- 『私は日本が忘れられない』(ベラ・チャスラフスカ述、イルジー・ムク編著。訳:宮川毅。ベースボール・マガジン社)
[編集] 外部リンク
- 国際政治に翻弄された「東京の恋人」の運命 - 日本オリンピック委員会(JOC)公式HPより
- VERA CASLAVSKA