プロンビエールの密約
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プロンビエールの密約(Accordi di Plombières)は、19世紀のイタリア統一戦争の際にフランスとサルデーニャ王国との間に結ばれた密約。
[編集] 概要
イタリア統一のためには、当時オーストリア帝国によって支配されていたロンバルディア、ヴェネツィアを奪回することが必要不可欠であった。しかし、サルデーニャ王国首相カミッロ・カヴールは、サルデーニャ単独でオーストリアとの戦いに勝利することは難しいと考え、クリミア戦争へフランス・イギリス側で参戦し、まず統一に有利な国際関係を形成した。その上でフランスのナポレオン3世へ援軍を要請した。ナポレオン3世は軍事援助の見返りにサヴォワ、ニース両州の割譲を迫り、カヴールもこれを渋々約束した。この取り決めがプロンビエールの密約と称されるものである。併せて、サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の娘マリア・クロチルデとナポレオン3世の従弟ナポレオン公(プロン・プロン)との結婚準備なども約束されていた。
軍事援助は履行され、イタリアはフランス軍の参戦によってロンバルディアの奪回に成功したが、隣国に強力な統一国家が生まれることを望まなかったナポレオン3世は、単独でオーストリアと講和した(ヴィッラフランカの講和)。その後、サルデーニャが中部イタリア(パルマ、モデナ、トスカーナ)の併合を図った際、フランスはサヴォワ、ニースの割譲履行を求め、両地域はフランスに割譲された。
カヴールの外交政策は、新しい地域を獲得してもそのたびにフランスに見返りを割譲しなければならないというジレンマに陥った。さらにこのことは、割譲されたニース出身の革命家ガリバルディの逆鱗に触れることになる。カヴールの外交政策に見切りをつけた彼は、この後単独で赤シャツ隊(千人隊)を率いて両シチリア王国を占領した。
イタリア王国は1861年に一応の統一を果たし、これ以後は同じくフランス、オーストリアの2国をドイツ統一の障害とするプロイセン王国と同盟関係を結ぶこととなる。