フォード・エスコートWRC
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フォード・エスコートWRC(Ford Escort World Rallycar)は世界ラリー選手権(WRC)に出場するためにフォードが製作した競技専用車である。
[編集] 誕生の背景
あまりにも増したスピードに対して安全性が追いついていかなくなったグループBから、より大人しく、安全な市販車ベースのグループAに移行した87年以降のWRCは、ランチアを中心にした勢力図で動いていた。だが、年を追うたびに熟成され、競争力の増した日本車の対峙により、次第にランチアの支配は弱まり、ついには92年を持って撤退してしまう。だが、それは高騰していく開発費ではなく、むしろグループAが定めている年間2500台を生産する市販車という項目にあった。日本車では、ランサーエボリューションやインプレッサに代表されるように年毎にバージョンアップした仕様を投入し、マーケットでも享受されていたため、実践のマシンにも新たに改良を加えられたコンポーネンツのもと、ポテンシャルアップを図ることが可能だったが、これはあくまでも日本のマーケットのみであり、そのようなモデルのマーケットがない欧米のメーカーは対抗できるベース車をラインナップに加えられず、WRCは年を追うごとに参加するメーカーが減少していった。この事態に一計を案じたFIAは、1997年から従来のグループA規定を叩き台にした新しいワールドラリーカー規定導入を発表した。その主な内容は、これまでの年間2500台生産されているモデルから、年間2万5000台されている量産車に変更されたこと。これによって、同一モデルのファミリーなら、どのモデルでもベースに出来るメリットが生まれた。また、エンジンも同一メーカーのものであれば乗せ換えも可能とし、4WD化に伴うリアサスペンションも、ストラットかセミトレーリングのうちどれかに変更できるなど、まさに従来のグループAの良い所どりの規定となった。
この規定に伴い、1996年時点で4WDターボカーの市販車を持たなかったフォードもワールドラリーカー規定のもと、新しいラリーカーを製作することとなった。だが、ライバルのスバルとは対照的に、開発にかける時間と予算の関係で、フォードは本来は認められていないエスコート・RSコスワースをベースにしたワールドラリーカーの製作の許可を求めFIAに打診。そして、それは新しい本来のワールドラリーカーを開発し投入することを条件に二年間の特例措置として特別に認可を許された。これによって、新しいラリーカー開発は急ピッチで進められることになる。
だが、あまりにも少なさ過ぎる時間と、本来、セミトレーリングアーム式のリアサスペンションをストラット式に変更したことによるバランスの悪さから、初期開発過程では苦境に陥ったが、97年の開幕直前までにはその問題も解決し、緒戦のモンテカルロを迎えることとなった。
[編集] 主な特徴
スペック | ||
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エンジン | コスワースYBT型直列4気筒DOHCターボチャージドユニット | |
最高出力 | 300PS/5500rpm | |
最大トルク | 50kg-m/4000rpm | |
トランスミッション | FFD製6段ドグミッション/Xtrac製6段シーケンシャル | |
前後サスペンション | マクファーソンストラット | |
全長 | 4,211mm | |
全幅 | 1,770mm | |
ホイールベース | 2,550mm | |
車重 | 1,230kg以上 |
ワールドラリーカー規定によって変更されたリアサスペンションや小型化されたリアスポイラーと大型化されたエアインテークをもつフロントマスクを除いて、そのほとんどのコンポーネンツをフォード・エスコート・RSコスワースのものを踏襲していたため、グループA時代のルックスと比較して外観はさほど代わり映えがしなかった。
対照的にエンジンは、コスワースYBTに代わりはないものの、従来の低中速域でのレスポンスを改善する狙いで、ライバルのスバルと同様にIHI(石川島播磨重工業)製の小径ターボチャージャーに変更された他、ウォーターインジョクションも投入され、300馬力の出力に対し、最大トルクは実に50キロ近くまでアップしていた。そのエンジンの開発を行ったチューナーは当初はイギリスのマウンチューン、その後は97年中盤から98年に渡ってトム・ウォーキンショー率いるTWRが担当した。 しかし、ワークスカー時代から、エンジンのパワー不足はエスコートに終始ついてまわり、チームは活動中、絶え間ない改良を注いで行った。
[編集] WRCでの活躍
ワールドラリーカー規定が導入された1997年は従来のローテーション制度が廃止され、開幕戦は再びモンテカルロとなった。その緒戦にフォードは前年同様、エースにカルロス・サインツ、セカンドドライバーはブルーノ・ティリーに代わって、新たにアルミン・シュワルツを迎えた。また、チーム運営もこれまでのフォード社内のボアハムに代わって、マルコム・ウィルソン率いるMスポーツとなり、すべてが新しい体制となった。開幕戦はサインツが粘りの走りで2位に入ると、続くスウェディッシュも、経験の少ないチームながら、サインツが再び2位、サファリも、シュワルツが序盤はトップを快走するなど、前半戦は上々の滑り出しをみせる。
しかし、本格的なスプリントラリーを迎えると、チームの経験力不足とマシンの信頼性不足が露呈し、ポルトガルではサインツがギアボックストラブルで初日にリタイア。カタルニアでは、グループA時代からの特徴であったサイドマフラーの熱でアルミ製のプロペラシャフトが破損するトラブルに見舞われ、サインツ、シュワルツともに全滅する憂き目に遭う。このあまりの散々な事態に憤慨したサインツは、ラリー後に膨大なテストを行い、チームもマシンの改良点を徹底的に洗い出した。まず、カタルニアでのリタイアの元凶となったプロペラシャフトはスチール製に代えられた他、サイド排出だったマフラーは一般的な後方排出に変わり、エンジンもCPUのマッピング変更でよりパワーアップが図られた。これらの改良と努力が実り、次戦ツールドコルスではサインツがスバルのコリン・マクレーと熾烈なトップ争いを繰り広げた末に2位を勝ち取る。続くアルゼンチンはスポンサー問題でチームを去ったシュワルツに代わって、ベテラン、ユハ・カンクネンを迎えて挑んだ。結果はカンクネンがサスペンショントラブル、サインツがオーバーヒートでともにリタイアに終わったものの、次戦アクロポリスではスバル、三菱がトラブルで低迷するなか、事前に不安要素のあるパーツの交換を施すチームの作戦とドライバー陣の粘り強い走りが功を証し、サインツ、カンクネンの1-2フィニッシュという最高の形で幕を下ろした。
後半戦は中盤の改良に加えて、軽量化と剛性アップを狙ったXゲージ型の新型ロールゲージとXtrac製シーケンシャルギアボックス、そしてTWRがチューニングを行ったエンジンでエスコートWRCはさらにポテンシャルアップを果たし、ニュージーランドでサインツ、カンクネンがそれぞれ2位と3位に、フィンランドでカンクネンが2位、インドネシアでは再び1-2フィニッシュを飾り、チームは着実に成績を残した。
そして、メイクスタイトルとドライバーズタイトルをかけて挑んだ終盤戦オーストラリア。序盤サインツは見事にトップ3に入る走りをみせ、勝利に向けアクセルを踏み続ける。 だが、その走りはあっけなくかたがついてしまった。二日目、タイトル獲得を目指し、さらに順位アップを狙ったサインツは、ブーストを上げたマシンで勝負を賭けるが、無情にもスタートから数キロ走ったところでエンジンがブローしてしまい、これによって、メイクス、ドライバーズ両タイトル獲得の可能性を失ってしまった。 最終戦はカンクネン、サインツがそれぞれ2位、3位に入り、新体制での一年を上々の結果で終えたものの、度重なる改良を施しても、マシンのポテンシャル、信頼性がライバルよりも劣っていたことに不満だったサインツは終盤戦のサンレモでトヨタ移籍を発表し、この年を持ってフォードを去った。
2年目の1998年。市販車では30年に渡ってフォードの屋台骨を支えてきた代表車種であるエスコートに代わって、ほぼ100%白紙の状態から開発された後継車、フォーカスがデビューし、エスコートにとっては名実共に最後のシーズンとなった。
ドライバーはサインツに代わって、カンクネンがエースドライバーに、セカンドドライバーには再びブルーノ・ティリーを迎えた。また、マシンのカラーリングも、サインツの移籍に伴ってレプソルが撤退したため、ホワイトをベースにフォードの楕円エンブレムをあしらったカラーリングに変わり、左右ドアにはエスコート誕生30周年を表した初代モデルと最終モデルのシルエットを元にデザインされたデカールが貼られていた。
開幕戦モンテカルロはカンクネンがベテランの利を活かして2位に入り上々の滑り出しをみせ、続くスウェディッシュ、サファリも、カンクネンと助っ人としてスポット参戦したアリ・バタネンがトップ3でフィニッシュする活躍をみせる。
だが、中盤戦に入ると、フォードは次期マシン、フォーカスの開発に勢力を集中したため、エスコートの開発は事実上ストップし、苦しい戦いを強いられることとなる。それでも、ドライバー陣は毎戦ごとにポテンシャルを上げてくるライバル相手に果敢に挑み、フィンランドではカンクネンが長年の経験を活かして、トヨタ、三菱とともに熾烈なトップ争い繰り広げる。高速ではパワーに勝るライバルに譲るものの、コーナーでは持ち前のハンドリングでそのパワー不足をうまくカバーし、接戦の末に見事3位に入る。そして、これがエスコートの長年に渡ってみせてきた最後の速さだった。
そして、最後の戦いとなった最終戦のグレートブリテンでは、カンクネン、ティリーがそれぞれ2位、3位に入り、68年以来、30年に渡ってフォードを支えてきたエスコートは見事に有終の美を飾りWRCを去った。
翌99年からはニューウエポン、フォード・フォーカスWRCによる活動が始まり、この後継マシンはエスコートに並んで、今なおWRCで勝てるマシンとして、並みいるライバルと熾烈な戦いを繰り広げている。