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ドランド・ピエトリ - Wikipedia

ドランド・ピエトリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ドランド・ピエトリ (Dorando Pietri、1885年10月16日- 1942年2月7日)は、1908年ロンドンオリンピックのマラソンにおいて、トップでゴールしながら、ゴール直前に倒れたところを係員に助けられたとして失格となったことで有名な選手である。

目次

[編集] 人物

[編集] ロンドンオリンピック(1908年)まで

ピエトリは、イタリアエミリア=ロマーニャ州出身で、若い頃は菓子屋の店員として働いていた。1904年に当時イタリアでもっとも有名なランナーであったペリクーレ・パグリアーニが、ピエトリの地元のレースに参加したときに、ピエトリはそのイベントに魅せられ参加し、パグリアーニよりも先着してしまった。数日後、ピエトリは長距離界にデビューし、ボローニャで行われた3000mで2位に入る活躍をしている。

翌年、彼はパリで行われた30㎞レースで勝利し、初めて国際的な成功を収めた。さらに、1906年4月に、1906年に行われたアテネオリンピック(非公式大会)の選考レースである大会にも勝利する。しかし、本番では、トップを走っていたにもかかわらず、腹の調子が悪くなりリタイアしてしまう。

1907年にはイタリア選手権に勝利する。彼は、5000mからマラソンまで、押しも押されもせぬイタリアのトップランナーと認められた。

[編集] ロンドンオリンピック(1908年)

ピエトリは1908年のロンドンオリンピックに向けて一生懸命に練習をした。地元で行われたレースでは、40㎞を2時間38分という、当時では破格の記録を出していた。しかしオリンピックは42.195㎞で行われることとなっていた。

そして、マラソンは7月24日に、イギリスの天候としては異常なほどの暑さのなか、しかも午後2時33分に56選手が参加してスタートした。

ピエトリは、まずはスローペースで入り、レースの中間点を過ぎると次第に力強く躍動してゆき、32キロ地点ではトップの南アフリカのチャールズ・ヘフェロンに4分差の2位にまであがっていった。ピエトリは、ヘフェロンが苦しんでいるのを知り、ますますペースを上げていき、ついに39キロ地点でヘフェロンを追い抜いた。

その後、ゴールまで約2キロ走り続けることとなる。彼は異常なまでの疲労と渇きをといった感じを持ち始めていた、体に悪影響が及んでいたのであった。そして、ついにゴールに近づいてきた。スタジアムに入ってきた。しかし、ピエトリは違う方向に進もうとする。係員が彼を正しい道を指し示したとき、彼はついに倒れてしまった。だが、彼は75,000人の観客の前でなんと係員によって立ち上げられた。

ドランドの悲劇
ドランドの悲劇

ピエトリは、さらに4回も倒れ、そのたびごとに係員に抱え上げられた。結局、彼はへとへとに疲れ果ててしまいながらも、何とか1着でゴールすることができた。タイムは2時間54分46秒であった。ラスト350mに10分もかかっていた。2着はアメリカのジョニー・ヘイズであった。アメリカチームはすぐに、ピエトリが係員に助けられながらゴールしたことについての異議を申し出た。異議は認められ、ピエトリは失格となり、最終成績からも抹消されてしまう。これが有名な「ドランドの悲劇」である。

[編集] 世界的有名人

ピエトリの頑張りはスタジアムにいた観客を感動させた。メダルを失った代償として、アレキサンドラ王妃は彼に銀のカップを授与することとし、作家のアーサー・コナン・ドイルは授与式を提案した。一説によれば、ドイルはゴール地点でメガホンをもって応援していたという。

ピエトリは世界的な有名人となった。作曲家のアービング・バーリンからは「ドランド」という歌をプレゼントされ、また、アメリカで行われるエキシビションレースに参加するよう求められた。1908年11月にニューヨークマジソン・スクエア・ガーデンで、ヘイズとピエトリが対決するレースがセットされた。このレースではピエトリが勝ち、また同じようなレースが翌年の3月にも行われた。ピエトリは、アメリカでの興行で行われた22レース中17回で勝利した。

ピエトリは、1909年5月にイタリアに戻り、プロのランナーとして活動することとなった。そしてさらに2年間外国で活動することとなった。彼の最後のマラソンは、1910年5月にブエノスアイレスで行われたレースで、ここで2時間38分48秒2の自己ベストを達成している。

ピエトリのイタリアでの最後のレースは1911年9月にパルマで行われた15kmのレースである。ここでも勝利している。彼の本当に最後となったレースは1911年10月にイェーテボリで行われたレースであった。彼は3年間プロとして活躍する間に、20万リラという当時としては破格の賞金を稼ぎあげた。

彼は、これを元手に兄弟でホテルの経営に乗り出した。しかし、経営者としては彼はランナーのようには成功できず、ホテルはつぶれてしまった。

その後ピエトリはサンレモに引越し、自動車ワークショップを経営した。


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