ティトゥス・マンリウス・トルクァトゥス (紀元前235年の執政官)
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ティトゥス・マンリウス・トルクァトゥス(Titus Manlius Torquatus、生没年不詳、紀元前3世紀)は共和政ローマの元老院議員。紀元前235年と紀元前224年に執政官を、紀元前231年には監察官を、そして紀元前208年には独裁官に選ばれた。彼の血統は紀元前4世紀に執政官をつとめた同名のティトゥス・マンリウス・トルクァトゥスを祖先とする。
[編集] 概説
紀元前235年、彼は執政官につとめるとサルディニアに遠征、カルタゴから奪い取る。そして戦争mの終わりとして神殿の扉を閉めた。この扉が閉められる事はローマが戦時ではないという事を意味し、ローマの歴史が始まって以来2回目だと言う。紀元前231年にはクィントゥス・フルウィウス・フラックスとともに監察官に選ばれるが、しかしすぐ次の年に新たな監察官が選ばれたために就任に必要な清めの儀式は行なわれず就任はしていなかった。
紀元前216年カンナエの戦い、生き残った元老院議員の中で年長の彼は、カルタゴの戦線を覆す努力をしなかったという根拠をもって捕虜に支払う賠償金の支払いに反対する。翌紀元前215年、再度サルティニア島に進軍、カルタゴ勢を撃破し、島全土を制圧した。
しかしながら彼の政治キャリアに陰りが見えてくる。ティトゥス・リウィウスによると、紀元前212年に最高神祇官に立候補するが、年若く目立たなかったプブリウス・リキニウス・クラッススに敗れたと言う。しかしながらリウィウスは細かな経緯、すなわち監察官を経験した彼がなぜ新参者のクラッススに敗れたのか、また新参者のクラッススは先達の彼を差し置いてまで最高神祇官に固辞して当選する理由があったのか、もしくはクラッスス自身がもとから主導権を握れるほどの実力だったのか明確には言及していない。
また彼はポエニ戦争で生き残った元老院議員の中でも最年長の部類であり、かつ監察官をもっとも早く就任した人物でもあったのにも関わらず、元老院の第一人者に選ばれる事はなかった。時の監察官プブリウス・センプロニウス・トゥディタヌスはクィントゥス・ファビウス・マクシムス・ウェッルコスス・クンクタトルを指名、彼が第一人者となった。
トルクァトゥスの没年は分かってはいないが、少なくともザマの戦いより前かと思われる。