タビンシュエーティー
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タビンシュエーティー王(1517年 - 1551年、在位:1531年 - 1551年)はビルマ人の王朝、タウングー王朝の王の一人。父王・ミンチーンヨーが1503年に手に入れていたチャウセーの土地がタビンシュエーティーの即位までに国土を潤わしていたため、タビンシュエーティーは即位後その力を存分に発揮し、ビルマ人の代表的な王の一人となった。
即位後、タビンシュエーティーはエーヤワディー川のデルタを1535年に掌握した。1539年にはペグー王朝の首都、ハンターワディー(ペグー、ホンサーワディー)を陥落させ、ペグー王朝を滅亡させた。翌年、ポルトガル人、ホアノ・カイエイロ率いる鉄砲隊700人を傭兵として雇い入れ、火薬という新兵器を導入し軍事力を大きくした。1541年新兵器による軍事力を得たタビンシュエーティーはモン族の都市、マルタバンを兵糧責めで攻撃し、一ヶ月の後陥落させた。タビンシュエーティーは南のモン族を平定すると、1554年、シャン族のアワ王国を攻撃、首都を壊滅させ、中央ビルマ全域を支配するに至った。
1548年から1949年には小タイ族の王朝・アユタヤが相続争いで混乱しているのを見て攻撃を仕掛けるが、相手も同じくポルトガル人傭兵隊を抱えていたことにより、その力を発揮できず失敗に終わった。
このようにポルトガル人傭兵隊がタビンシュエーティー王時代のタウングーに大きな進展をもたらした一方で、タビンシュエーティーは、ポルトガル人傭兵隊の持ち込んだアルコールにおぼれ、アルコール依存症をきたした。また晩年には、モン族の妻を娶り、モン族の習慣を積極的に導入。下ビルマの国主にビルマ人を任命せずにモン族を導入したため、国内ではモン族に対する脅威が高まった。
タビンシュエーティーは1551年、シッタウンの国主に殺されるが、この後、タウングー王朝では各地で他民族の反乱が起き王朝は再び分裂。この危機を救ったのが次期国王で彼の乳母兄弟であるバインナウンである。
[編集] 参考文献
- 大野徹 『謎の仏教王国パガン』 NHKブックス 2002年