ゾフィー・フォン・デア・プファルツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゾフィー・フォン・デア・プファルツ(Sophie von der Pfalz, 1630年10月14日 - 1714年6月8日)はプファルツ選帝侯フリードリヒ5世とその妃エリーザベト(エリザベス)の五女(第12子)。ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストの妃。ハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒ(イギリス国王ジョージ1世)の母。
ゾフィー・フォン・ハノーファー(Sophie von Hannover)とも呼ばれる。英語名はソフィア(Sophia)。プファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒ、イングランドのカンバーランド公ルパートの妹である。
[編集] 生涯
はじめはブラウンシュヴァイク=リューネブルク公・ゲオルク・ヴィルヘルムと婚約していたが、美しかったゾフィーが嫁ぐ前に天然痘にかかってしまい、婚約を破棄された。その後ゲオルク・ヴィルヘルムは、ドルブロイゼ家のエレオノーレという美しい平民の女性と結婚した。このため、ゾフィーは深くゲオルク・ヴィルヘルムを恨むようになった。1658年にゲオルク・ヴィルヘルムの弟エルンスト・アウグストと結婚したが、成人したうちでも4番目の男子であった夫には当時、公位を継ぐ可能性はほとんどなかった。しかし兄たちが嗣子なくして死去したために、エルンスト・アウグストは父ゲオルクの遺領を相続し、さらに1692年には選帝侯の1人にも選ばれた。
息子ゲオルク・ルートヴィヒは、1688年に伯父ゲオルク・ヴィルヘルムの娘ゾフィー・ドロテアと結婚したが、過去のいきさつや、ゾフィー・ドロテア自身がこの結婚を嫌がった事などから、嫁姑の関係は良くなかった。
ゾフィーは政治力に優れ、よく夫を助けた。また、孫のゲオルク・アウグスト(後のジョージ2世)の嫁選びにも奔走し、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ヨハン・フリードリヒの娘カロリーネ(キャロライン)を見つけ出した。ゾフィーの嫁選びの目は確かで、カロリーネは聡明な女性であり、ウォルポールと共に、国王になった夫を後によく助けた。
[編集] イギリスの王位継承に関して
17世紀後半以降のイギリスは、ピューリタン革命・王政復古・名誉革命が起き情勢が混乱していた。そして、名誉革命以降に王座に就いたメアリー2世・ウィリアム3世・アンのいずれにも王位継承可能な子が無かった。
ゾフィーの母方の祖父がイングランドとスコットランドの王ジェームズ1世であり、かつ彼女がプロテスタントであったこと、そして兄たちやその子女がいずれも死去しており、カトリックの王の即位を阻むため、1701年に王位継承法によってイングランドとスコットランド(合同してグレートブリテン王国となるのは1707年)のアン女王に次ぐ王位継承権者に定められた。
しかしゾフィーは、アン女王より2ヶ月早く死去した。女王の死後は、ゾフィーの長男であるハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがジョージ1世として王位を継承した。
現代のイギリスでも、王位継承法(1701年制定)は有効である。「ステュアート家の血を引いている者」が条件の一つであり、その条件を満たすのはゾフィーの子孫に限られている。