セプティミウス・オデナトゥス
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セプティミウス・オデナトゥス(ラテン語:Septimius Odaenathus、? - 267年)は通商都市パルミラを根拠地としてローマ帝国の東方属州を統括していた人物であり、後のパルミラ王国の原型を作った。「オデナトゥス」以外に、「オダエナトゥス」「オーデナサス」とも表記される。
[編集] 生涯
オデナトゥスの氏族名からも表されるように、オデナトゥスの祖先はセウェルス朝よりローマ市民権を得たと考えられ、190年代の内にパルミラに移り住んだとされる。
260年にサーサーン朝がウァレリアヌス帝を捕虜とした時期にオデナトゥスは既にシリア属州を中心としたローマ東方属州における有力者となっており、当初はシャープール1世とも交渉した形跡がある。
ウァレリアヌスの後継としてその息子・ガリエヌスが皇帝に即位したが、これに対して20名以上の皇帝僭称者が出る等、ローマは大混乱に陥った。オデナトゥスは皇帝僭称者の一人であるクィエトゥス(en)をエメサ(現:ホムス)で攻め滅ぼし、その後もガリエヌスの皇帝即位を支援するべく、オデナトゥス自らの私兵を率いてガリエヌスに味方して戦った。その為、ガリエヌスから信頼を得て、東方属州の防衛を一任されるまでとなった。
その生涯に於いて、オデナトゥスがローマ帝国から独立して王位に就くことは無かったものの、ローマ自体が北方異民族の侵入や西方属州の割拠(ガリア帝国)により危機的状態であった為、事実上はオデナトゥスもローマとは一線を画した半独立状態であった。
267年、オデナトゥスはゴート族討伐の出征前の宴席で甥・マエオニウス(en)(Maeonius)により暗殺され、同時に息子ヘロディアヌス(it )も殺害された。258年に後妻として迎え入れたゼノビアが仕組んだともされるが、背後関係は不明である。 なお、オデナトゥスの死後はゼノビアが息子ヴァバラトゥス(Vaballathus)をオデナトゥスの後継者に据えて自らが実権を握った。