スペイン1812年憲法
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スペイン1812年憲法(すぺいん1812ねんけんぽう)はフェルナンド7世らが逃避中にスペインでカーディスコルテス(全国的な国民議会)により公布された。ナザレのヨセフの日に採択されたためにスペイン人は「La Pepa」と渾名を付けた,[1](スペイン語でPepeはJoséの良くある渾名である)。PepaはJosefaの渾名に相当するが、constitución[2]が女性形のために使われている。
コルテスが憲法を採択したときは、スペイン人がGuerra de la Independencia[3]と呼ぶ半島戦争(フランス第一帝政に対する戦争でホセ1世を即位させた)からカーディスに逃れていた。この戦争はフランシスコ・ゴヤの絵画1808年5月2日で不朽のものとされた1808年5月2日夜に始まり、Charge of the Namelukesとしても知られている。この戦争はナポレオン軍がスペインのゲリラとアーサー・ウェルズリー指揮のイギリス軍に直面するスペイン領でのゲリラ戦であった。
新しいコルテスは、1810年9月14日に開会した。数点の基本理念が、間もなく採択された。即ち主権は国民にあり(国民主権参照)、フェルナンド7世を正当な王と認め、その代理は神聖不可侵である。カーディスのコルテスは、激しい議論が行われ、スペイン最初の成文憲法が、1812年3月12日にカーディス市で採択された。ナポレオン1世の介入に先立ち、スペインはボルボーン家とその前はアブスブルゴ家が絶対君主として支配していた。
フェルナンド7世が連合軍の手で1814年3月に復位すると、スペイン政府の新しい憲章を支持すると約束したが、何週間も経たない内にローマカトリックを背景にした保守派に先導されて憲法を否定し(5月4日)、リベラル派の指導者を逮捕し(5月10日)、自分のいない間に同意なくコルテスが制定した憲法を否定する行為を正当化した。従って主権が自分のみに存するというボルボーン家の考え方を主張する体制に戻ってしまった。
フェルナンドの酷い失政で1820年に軍の将校が反乱を起こす結果となると、1812年憲法はリベラル派はスペインに立憲君主制を齎そうと願っていたリベラル派を纏める文書となった。1823年のフェルナンドを解放するトロカデロの戦いの後、フェルナンドは激しい怒りを覚えながらもリベラル派と憲法派に回帰した。
1812年からスペインは2006年現在効力のある現行の1978年憲法を含め全部で7つの憲法がある。
[編集] 脚注
- ^ 原注:スペイン憲法に関するスペイン政府の公式サイトのOtras constituciones(2006年4月16日現在)
- ^ 訳注:スペイン語で「憲法」のこと。
- ^ 訳注:独立戦争