スチュアート・オグレディ
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獲得メダル | ||
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金 | 2004 アテネ | マディソン |
銀 | 1992 バルセロナ | 4000m団体追抜 |
銅 | 1996 アトランタ | 4000m団体追抜 |
銅 | 1996 アトランタ | ポイント |
金 | 1993 マヨルカ島 | 団体追い抜き |
金 | 1995 ボコタ | 団体追い抜き |
銅 | 1995 ボコタ | 個人追い抜き |
銅 | 1991 シュツットガルト | 団体追い抜き |
銅 | 1994 シチリア島 | 団体追い抜き |
スチュアート・オグレディ(Stuart O'Grady, 1973年8月6日- )はオーストラリア・アデレード出身の自転車競技選手。トラックレースではオリンピック金メダリスト、ロードレースではスプリンタータイプの選手としてツール・ド・フランスの序盤ステージにおいてしばしマイヨ・ジョーヌを獲得したり、また2007年のパリ〜ルーべも制するなどの実績を持つ、オーストラリアを代表する自転車競技選手である。また、オーストラリア勲章(OAM)も受章している。
[編集] 経歴
オグレディの自転車選手としてのキャリアはトラックレースから始まった。1992年のバルセロナオリンピックでは、4000m団体追い抜きのメンバーとして銀メダルに貢献。1996年のアトランタオリンピックにおいても、4000m団体追い抜き、ポイントレースで銅メダルを獲得。
アトランタオリンピックの1年前にガン(現・クレディ・アグリコール)と契約を結んでプロ選手となり、その後はロードレースにおける活躍ぶりが目覚しくなった。1998年のツールでは第4~第6ステージまで総合首位に立った。また2001年のツールでも、第4~第6、第8~第9ステージでマイヨ・ジョーヌを身にまとった。この他ツールのポイント賞争いにおいても常に上位に食い込む活躍を見せる。しかしエリック・ツァベルの壁が厚かったこともあり(ツァベルは1996~2001年まで6年連続ポイント賞受賞)、ポイント賞獲得には至っていない。とりわけ惜しかったのは2001年のツールで、最終ステージにおいてマイヨ・ベールを身にまとってレースに挑んだが、最後にツァベルに逆転されてしまった。一方、2008年のシーズンよりUCIプロツアーの対象レースに組み入れられることになったツアー・ダウンアンダーの初代総合優勝者(1999年)であり、2001年にも同レースを優勝している。
2004年にコフィディスに移籍するが、この年、オグレディはヴァッテンフォール・サイクラシックスを優勝した他、アテネオリンピックではマディソンにおいてグラーム・ブラウンと組んで金メダルを獲得。翌2005年のツールでは、トル・フースホフト、ロビー・マキュアンと熾烈なポイント賞争いを演じた。2006年、ビャルヌ・リース監督に懇願し、現在ロードレース界においては最強のチームといっても過言ではない、チームCSCへの移籍を果たす。その年は怪我の影響もあってか不振だったが、翌2007年のパリ〜ルーべでは見事優勝を果たし、この時点で一時UCIプロツアーの総合トップにも立った。
オグレディの家系は自転車一家であり、叔父は東京オリンピックに出場した経験を持つ。また父も南オーストラリア州の選手権大会を制するなどの実績を挙げている。そしてオグレディは母国オーストラリアにおいて、「CSC・チーム・オグレディ」というジュニアの自転車チームのスポンサーとなり、チームの財政的支援を行っている。