ジェネラル・シャーマン号事件
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ジェネラル・シャーマン号事件とは、1866年8月16日[1]に朝鮮で起こった外国民間人虐殺事件である。
ジェネラル・シャーマン号は元々は南北戦争の時に南軍によって建造された、スクーナー型蒸気帆船である。排水量186t、武装は12ポンド砲2門、ガトリング砲2門の、軽武装の小型砲艇[2]であった。シャーマンは北軍の将軍の名なので、艦名は南北戦争後に改名されたものとおもわれる。
これをアメリカ人プレストンが商用に用いる為、中国で乗組員ごと購入した。乗組員は船主プレストンはじめ、船長ページ、航海長ウィルソン、甲板長ホガート、英国国教会宣教師兼通訳トーマスら英米系5人と、他に13人の中国人、3人のマレー人の計21名。乗組員の中に砲手や砲台長はいなかった。よって事件当時のシャーマン号は、米海軍とは無関係の、ただのアメリカ民間商船であった。
朝鮮との通商をイギリスのメドウズ商会と契約したシャーマン号は大同江を遡行、干潮の為動けなくなったところを狙われた同船は攻撃され焼き討ちに遭い、乗組員21名全員が殺害された。
米海軍はこの事件の事情調査の為、1867年1月に軍艦ワチューセッツ(シューフェルド)、1868年春には軍艦シェナンドー(フェビガー)を派遣した。軍艦ワチューセッツは大同河口まで到着したが結氷しており進むことができなかった。軍艦シェナンドーは大同江を進んだが、朝鮮の役人から「乗組員は全員死亡した」とだけ伝えられた。
1871年、米海軍はこの事件の賠償を要求することと開国要求の為、軍艦を朝鮮に派遣した。江華島沿岸に接近した時、朝鮮軍の要塞から砲撃された為、軍艦4隻が反撃し、海兵隊を江華島に上陸させ、砲台の一部を占領した。米側は捕虜を材料に開国交渉を要求したが、朝鮮側はこれを拒否。米海軍は一ヶ月後撤収した(辛未洋擾)。現代の北朝鮮・韓国側資料にはアメリカ軍を撃退したとしばしば記述されるが、事実は朝鮮側戦死者350名、米軍側戦死者わずか3名と、朝鮮側の一方的大敗北であった。
[編集] 関連項目
[編集] 註と外部リンク
- History of United States Naval Operations: Korea (Author James A. Field, Jr.) DEPARTMENT OF THE NAVY NAVAL HISTORICAL CENTER.
- 米国海軍歴史センター ジェネラル・シャーマン号の写真と簡単な説明がある
- USS General Sherman Incident
- 当時の写真
- ^ 高宗実録3年 7月 27日 (癸未)
- 平安監司朴珪壽狀啓。 平壤府所泊異樣船。 益肆猖狂。 轟砲放銃。 殺害我人。 其所制勝之策。 莫先於火攻。一齊放火。 延燒彼船。 彼人崔蘭軒趙淩奉。 跳出船頭。 始請救生。 卽爲擒捉。 縳致岸上矣。 軍民憤忿。 齊會打殺。 其餘殲滅無遺。全城騷擾。 始可鎭定。 兼中軍鐵山府使白樂淵。 平壤庶尹申泰鼎。 親冒銃砲。 心力俱殫。 畢竟勦滅。 可歸全功。 施以襃賞之典。 恐未知如何。當初異船之入境。 旣不能防捍。 至有副將拘執之辱。 終不免厮殺乃已。 有違聖明柔遠好生之德。 臣不勝惶恐待罪。 敎曰。 關西一道。 箕聖故都。服襲八條。 忠義相勉。 朝家之視他有別久矣。 今其西洋醜類。 闖入浿江。 拘執副將。 殺害民人。 小竪跳踉。 本不足血刃。 蓋其稔惡旣久。自干天誅者也。 方伯守宰之整頓紀律。 臨機制勝。 已有全功。 而軍校吏民之爭先勇赴。 殪殄無遺。 忠憤所激。 氣義可尙。 平安監司朴珪壽。特爲加資。 兼中軍鐵山府使白樂淵加資。 許用營將履歷。 平壤庶尹申泰鼎。 限一瓜久任。 道伯與中軍庶尹。 仍施璽書表裏之典。前中軍李玄益雖己責備。 不無奔走之勞。 許用邊地履歷。 其餘校吏。 自本營從厚施賞。 公穀會減道臣勿待罪。
- ^ 韓国の歴史書などには武装商船と記載される場合が多い。GUNBOATの翻訳と思われる。外部リンク参照。米国国防省の記載ではmerchantmanとの記載である。なお北朝鮮系の報道機関 朝鮮新報によれば「1866年、悪名高い米国のジェネラル・シャーマン号が、大同江を遡り、平壌にやって来て、略奪・強盗など勝手に振る舞い、朝鮮官民の怒りを買い、火攻めにあって全滅した。」と記載している。いくつかのサイトには
- 『USS Princess Royal号を改造し、General Sherman 号という商船にした。』