サモトラキ島
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サモトラキ島 (英語:Samothrace、ギリシャ語: Σαμοθράκη, ローマ字表記:Samothraki, トルコ語:Semadirek)は、ギリシャの島。サモトラケ島ともいう。北エーゲ海の島。エヴロス県の一部。マケドニア=トラキア州の南端。ギリシャ領トラキアの南端である。ギリシャ=トルコ国境のわずか数キロの西方の海に浮かぶ。島最長部で17キロ、面積178平方キロメートル、人口2,723人(2001年調査)。主な産業は漁業と観光。
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[編集] 歴史
サモトラキは古代ギリシャでどの政治的権威を持つ国家にも属していなかった。それは、島に天然の港がなく、島の大半が山がちで生産性に乏しかったことが原因である。フェンガリ山は1,624メートルの高さである。しかし、サモトラキ神殿群の場所は、重要なヘレニズム・前ヘレニズム時代の宗教儀式のおこなわれる場所だった。神殿を訪問した人々の間から島は、スパルタ王Lysander、マケドニア王ピリッポス2世、ユリウス・カエサルの義父コルネリウス・ピソらが崇拝する地となったのである。
サモトラキに初めペラスゴイ人とカリア人が移り住み、のちにトラキア人たちが加わった。8世紀の終わりには島はサモス島支配からギリシャ植民地となり、『トラキアのサモス』という名前から『サモトラキ』と名前が変わった。紀元前508年に島はペルシャ帝国に奪われ、のち紀元前5世紀にデロス同盟の一員としてアテネ支配となった。ピリッポス2世に服従してから紀元前168年までマケドニア王国が宗主権を握った。パイドナの戦いでサモトラキは独立し、この状態は紀元70年にウェスパシアヌスのローマ帝国に支配されるまで続いた。ビザンツ帝国は1204年まで島を支配し、その後ヴェネツィア共和国がサモトラキを獲得。1355年に一時ジェノヴァのガッティルージ家にヴェネツィアが追い出されたことがある。1457年、オスマントルコが島を征服。1821年からのギリシャ独立戦争で住民の多くが対トルコ反乱に加わり、多くの人々が虐殺され人口を減らした。1913年、バルカン戦争の結果サモトラキはギリシャへ復帰した。第二次世界大戦中、短期間ブルガリアに占領された。
古代の都市遺跡はパレオポリ(旧市街)と呼ばれ、北岸にある。古代の城壁が残り、サモトラキ神殿群同様どっしりとしたCyclopean様式で建てられている。エレウシスの秘儀と対照的に、神話の儀礼が奴隷・自由民両方の参加で行われていたという。
[編集] 現在
北西岸のカマリオティッサ港は、北ギリシャのアレクサンドロポリとカヴァラとをフェリーで結ぶ。島に商業空港はない。島のみどころは他にジェノヴァ要塞の跡、絵のようなホラの旧市街、いくつもの滝がある。
島で最も有名な場所は、サモトラキ神殿群(ギリシャ語でHieron ton Megalon Theon)である。ここにはギリシャ神話の女神ニケを模した、全長2.5メートルの大理石像『サモトラケのニケ』があった。この像はフランスの考古学者シャルル・シャンポワゾーによって1863年に一部が発見された。現在はルーヴル美術館に収蔵されている。
[編集] 人口の推移
年 | 人口 | 増減 | 島全体の人口 | 増減 | 密度 |
---|---|---|---|---|---|
1981 | - | - | 2,871 | - | 16.13/² |
1991 | 719 | 995/27.9% | 3,083 | +112/+3.90% | 17.32/km² |
[編集] 外部リンク
- A webpage featuring Samothrace
- Official Samothrace webpage (in Greek)
- Photos of Samothrace
- Mapquest - Samothraki, street map not yet available
- Coordinates: