ゴードン・ベスーン
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ゴードン・ベスーン(Gordon M. Bethune、1941年8月 - )は、アロハエアグループ(アロハ航空の親会社)取締役会長。元コンチネンタル航空取締役会長兼CEO(最高経営責任者)。
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[編集] 経歴
[編集] 海軍除隊まで
農薬散布飛行士の息子として生まれる。両親は幼少の頃に離婚し、母と暮らしていたが、その後も実父とは何度か逢っていたという。責任というものがどのようなことかを理解したのは、15歳の時に実父の家を訪れた際に、農薬散布の飛行機の着陸補助を手伝った時だと自著の中で回想している。
17歳でアメリカ海軍に入隊し、海軍技術学校で航空電子技官として学び、航空機の整備士となる。1961年から4年間で夜間学校に通い、高校卒業資格を取得した。
[編集] 航空業界へ
1979年に、海軍時代の同僚から招かれ、ブラニフ航空に入社。規制緩和において経営の効率化に努めた。ブラニフ航空在職中に整備士資格を取得。また、アビレーン・クリスチャン大学で学士号を取得した。1983年にはウエスタン航空へ整備部長として入社。この時に、当時ピードモント航空で整備部長の職にあった鶴田国昭と出会い、鶴田の紹介でピードモント航空へ移籍、上級副社長に就任する[1]。
1989年、ピードモント航空がUSエアに買収されると同時に同社を退職、ボーイングに役員として入社した。ボーイング入社中には、ボーイング757・767の操縦資格を取得した。
[編集] コンチネンタル航空再建
ベスーンを航空業界において有名にしたのは、コンチネンタル航空の再建を果たした実績である。
1994年2月に同社の社長兼COO(最高執行責任者)として招聘される。同年12月に社長兼CEOに就任し、「Go-Forward plan」(前進プラン)と称した再生プランを実行した。このプランは、従業員の士気を高めると同時に、商品の質的・財政の健全化を目的としたもので、この再生プランにより、1994年の時点で会社存亡の危機にあった同社は1995年に単年度黒字を計上し、1996年には「エアライン・オブ・ザ・イヤー」を受賞するなど、経営状態は大きく改善された。
再生プランを実行するにあたって、財務・システム・運航のエキスパートを呼び寄せたが、特に運航部門の改善に呼び寄せられたのは、鶴田を含めて3人ともピードモント航空でベスーンと共に働いていた者たちだった。このため、「ビジネス・マンデー」1997年12月1日付で同社の奇跡的とも見られた再建を紹介する際に、ベスーン・鶴田たちの4人に対して「Piedmond West」(ピードモントのマフィア)と呼んでいた。
2004年12月に同社を退社。2006年からはアロハ航空の親会社であるアロハエアグループの会長に就任している。
[編集] エピソード
- 前述の通り、ボーイング767の操縦資格を持つ。コンチネンタル航空在籍当時、ボーイング767の受領時には自ら操縦したこともあるほか、ボーイング777の受領時にも操縦桿を握り、操縦フィーリングを確かめたという。
- 1999年に、コンチネンタル航空の拠点であるジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港に社員食堂が設置された。同社に対するベスーンの功績を讃える意味で、「ゴードンホール」と命名されている[2]。
- コンチネンタル航空退社を控えた2004年11月には、同社に対するベスーンの功績を讃える意味で、保有するボーイング777のうちの1機が「ゴードン・M・ベスーン号」と命名された[3]。
[編集] 家族
ヒューストン在住、妻と子供が3人いるが、いずれも既に成人しており独立している。そのうち1人はコンチネンタル航空に勤務している。
[編集] 脚注
- ^ 鶴田国昭「『サムライ』、米国大企業を立て直す!!」p147
- ^ 鶴田国昭「『サムライ』、米国大企業を立て直す!!」p233
- ^ コンチネンタル航空プレスリリース2004年11月9日による。
[編集] 参考文献
- 鶴田国昭「『サムライ』、米国大企業を立て直す!!」(2004年・集英社)ISBN 408781310X
- ゴードン・ベスーン/スコット・ヒューラー「大逆転!」(1998年10月発行・日経BP社)ISBN 4822241335