グライヴィッツ事件
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グライヴィッツ事件とは第二次世界大戦前夜に当時ドイツ領であった現ポーランドのグリヴィツェ市にあるラジオ局への偽の襲撃事件を指す。親衛隊の謀略部隊の自作自演の襲撃事件は、ポーランド侵攻を正当化する「ヒムラー作戦」の一連の謀略の1つである。
[編集] グライヴィッツでの出来事
グライヴィッツ事件について判明している事の殆どは戦後のニュルンベルク裁判での親衛隊少佐アルフレート・ナウヨックスの宣誓口供書による。ナウヨックスの証言によると、この事件は親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒと秘密警察局のハインリヒ・ミュラーの命令により、ナウヨックス自身が準備したものである。
1939年8月31日夜、ナウヨックスに率いられた1団のドイツ工作員がグライヴィッツのラジオ局を襲撃し、シュレジェン地方のポーランド系住民に向けてポーランド語でドイツに対するストライキを呼びかけた。ドイツの目的は、この襲撃と放送を反ドイツ的ポーランド系住民の暴徒の仕業によるものに見せかけることだった。
この襲撃場面をよりそれらしく見せるため、ナウヨックスの部隊はフランチシェック・ホニオックを連れてきていた。ホニオックはドイツ系シレジア人で、ポーランド人に好意的な人物と看做され前日にゲシュタポによって逮捕されていた。ホニオックはポーランド工作員のような服装をさせられ、致死量の毒物を注射され、銃で撃たれた。遺体は現場のラジオ局に残され、あたかも彼がラジオ局を襲撃した際に殺されたように見せかけられた。後に遺体はドイツの警察とマスコミに提示され、ポーランド側による襲撃の証拠とされた。ホニオックに加えて、他に数人の囚人がこの目的に使用されるために準備されていた。
ドイツはこの襲撃計画をKonserve(缶詰)という暗号名で呼んでいた。このため、一部ではこの事件を「缶詰事件」と読んでいるが、その表現は正確ではない。
[編集] 事件前後の状況
グライヴィッツ襲撃と同じとき、ポーランド・ドイツ国境沿いでは、ポーランド回廊地方における放火や、偽のプロパガンダなど、ドイツによって巧みに仕組まれた他の複数の事件が起きていた。すべてのプロジェクトはまとめて「ヒムラー作戦」と称され、これは全部で21件の事件からなるが、この作戦はドイツに対するポーランドの不当な攻撃を仕立て上げるのが目的であった。
グライヴィッツ襲撃の翌日の1939年9月1日に、ドイツは白の場合(Fall Weiß)、すなわちポーランド侵攻作戦を発動した。ヨーロッパにおける第二次世界大戦の始まりである。アドルフ・ヒトラーは臨時国会議事堂にあてられたクロールオペラ劇場での演説でこれら21件の事件に触れ、ポーランドへの「自衛権」行使はドイツの正当な行動であるとした。