カイ越
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本来の表記は「蒯越」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
蒯越(かい えつ、? - 214年)は、中国の後漢時代末期の政治家または武将。字は異度。荊州南郡中廬侯国の人。楚漢戦争期の説客・蒯通の子孫。蒯良は同郷同姓の人物で一族の可能性は高いが、関係は不明である。
目次 |
[編集] 正史の事跡
姓名 | 蒯越 |
---|---|
読み・ピンイン | かいえつ〔Kuǎi Yuè〕 |
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 214年(建安19年) |
字・別号 | 異度(字) |
本貫・出身地等 | 荊州南郡中廬侯国 |
職官 | 東曹掾→汝陽県令→大将 |
爵位・号等 | 樊亭侯→列侯 |
陣営・所属等 | 何進→劉表→劉琮→曹操 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
最初は何進に東曹掾として仕え、宦官殺害を進言するものの何進は決断できなかった。その後、蒯越は自ら望んで汝陽の令として荊州に赴き、劉表配下の大将となった。初平年間に、蒯越は謀略と弁舌を駆使して、荊州で劉表に対立していた地方官や豪族を次々と滅ぼし、あるいは降伏させ、劉表の荊州統一に大きく貢献している。後に、献帝の詔勅により、蒯越は章陵太守に任命され、樊亭侯に封じられた。
建安13年(208年)、劉表が死去して劉琮が後継すると、曹操が荊州進攻を図る。蒯越は、同僚の韓嵩や傅巽と共に曹操への降伏を劉琮に進言し、劉琮もこれを受け入れた。曹操は、蒯越を列侯に封じ、光禄勲に任命した。曹操は荀彧への手紙の中で、「荊州を手に入れたことは嬉しくないが、蒯異度を手に入れたことは嬉しい」と書いている。蒯越は、建安19年(214年)に死去した。
[編集] 人物像
『三国志』魏書劉表伝注に引く『傅子』によると、蒯越は深い智謀を有し、逞しい体躯の持ち主だったという。また、同伝注に引く司馬彪の『戦略』によると、劉表が荊州の敵対者を鎮圧する方法を質問した時に、蒯良は「仁義の道を施すべき」と答えたのに対し、蒯越は「利で誘った上で無道の者を誅し、残りは安撫すべき」と答えたという。劉表は蒯越の進言を「(時宜にかなった権謀術策で知られた晋の人物)臼犯の策である」と賞賛し、この策を用いて荊州統一に成功したとされる。
[編集] 物語中の蒯越
『三国演義』では、字は英度、延平の人、蒯良の弟とされている。玉璽を手に入れて江東へ引き返そうとする孫堅を、袁紹・劉表の命で蔡瑁と共に待ち伏せて包囲したが、後一歩で取り逃がした。
その後登場するのは、劉備が荊州に逃れてからである。蒯越は、劉表が劉備から受け取った馬が「的盧」であることを馬相から見抜き、これを手放すよう薦めた。蔡瑁が劉備を暗殺しようとすると、蒯越は最初躊躇したが、蔡瑁が劉表の命であると偽ったため、これに協力している。なお、この件については、『三国志』蜀書先主伝注に引く『世語』(『魏晋世語』のことか)に、蒯越と蔡瑁が劉備暗殺を謀ったと記されており、これが元の話と思われる。もっともこの話は、『三国志』の注釈者裴松之が、事実のはずがないと、強く否定している。
以後、曹操に降伏するまでは、史実どおりの展開である。ただ、『演義』では曹操から江陵太守[1]に任命されているが、これは史書には無い。
[編集] 注
- ^ 江陵は南郡の1県であるため、「江陵太守」という地位は存在しない。南郡太守か江陵県令のいずれかが正しい。