オロデス2世
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オロデス2世(Orodes II、在位:紀元前57年 - 紀元前38年)は、アルサケス朝パルティアの王。ミトラダテス2世の死以来パルティアで使われなくなっていた諸王の王(ギリシア語でバシレウス・バシレオン)という称号を再び使用した。
[編集] 来歴
フラーテス3世の息子として生まれた。兄弟のミトラダテス3世と共謀して父フラーテス3世を暗殺し、その後ミトラダテス3世と共に王となったが、これはその後の内戦に繋がった。オロデスはスーレーン氏族など有力貴族の支持を得てミトラダテス3世に勝利したが、ミトラダテス3世はローマ領シリアへ逃れて再起を図り、メソポタミアに再度侵攻した。一時バビロンやセレウキアを占領されたが、スーレーン氏族出身の将軍スレナス(スレナスはスーレーンのギリシア語形であり本名は不明)の指揮の下、バビロンを包囲してミトラダテス3世を降伏させ、これを処刑した(紀元前54年)。
一方ローマではシリアの新総督クラッススが主導して大規模なパルティア遠征軍が組織されていた。紀元前54年から始まったこの戦争は紀元前53年、史上名高いカルラエの戦いによって帰趨が決した。この戦いでクラッスス率いるローマ軍は約4万の軍勢を持ってカルラエ市近郊にまで進軍した。一方スレナス率いるパルティア軍は騎兵を中心とした1万人余りの軍勢で迎え撃ちローマ軍に圧勝した。クラッススの息子プリスクスも戦死するなど大敗を喫したローマ軍は敗走する中、更に追撃を受けて兵力の大半を喪失しクラッススも殺された。これによってパルティアはローマの脅威を一時的に排除することに成功し、またローマ領の一部を攻撃して勝利を収めた。
この戦いの後、東方で遊牧民の攻撃を受けたためにローマ侵攻は中断されたが、紀元前40年頃には、オロデス2世の長男パコルス1世の指揮で再びローマ領への侵攻が行われた。パコルス1世の活躍によりローマ軍に勝利を重ねたが、パコルス1世はアンティオキア攻略戦の際に戦死してしまった。このため王位継承問題が噴出し、オロデス2世の死後その息子達は殆どが殺される事になる。
紀元前38年にオロデス2世は死去した。パコルス1世を失った精神的衝撃から病没したとも、息子の一人フラーテス4世によって暗殺されたともいわれる。