エドワード・ベイリャル (スコットランド王)
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エドワード・ベイリャル(Edward Balliol, 1282年頃 - 1364年)はスコットランド独立戦争時代のスコットランド王(在位:1332年 - 1356年)、または王位僭称者。
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[編集] 亡命者
スコットランド王となったジョン・ベイリャルの長子であるが、1296年にジョン・ベイリャルが廃位された後、1299年まで父と共にロンドン塔に幽閉された。釈放された後、ジョン・ベイリャルはフランス・ピカルディの所領に隠遁したが、エドワード・ベイリャルは外祖父に当たる前スコットランド総督サリー伯ジョン・ド・ワーレンの元で過ごした。
1306年にロバート・ブルースがロバート1世として即位すると、スコットランドにおけるベイリャル家の王位は剥奪され、所領も没収された。1314年にエドワード2世率いるイングランド軍がスコットランドに侵攻したがバノックバーンの戦いで大敗した。これによりロバート1世の王位は確定し、エドワード・ベイリャルの存在は歴史から忘れ去られた。
[編集] 即位
しかし、1329年にロバート1世が亡くなり、わずか5歳のデイヴィッド2世が王位を継ぐと、所領を失っていたベイリャル派のスコットランド貴族たちは、イングランド王エドワード3世の支援を受けて、1332年8月にエドワード・ベイリャルを担いでスコットランドに侵攻した。スコットランド王軍をダプリン・ムーアの戦いで破り、エドワード・ベイリャルはスクーンでスコットランド王として戴冠した。
だが、エドワード・ベイリャルは支援への見返りとして南部諸州をイングランドに割譲し、イングランド王の傀儡と見なされたため、スコットランド人は彼を支持せず、わずかに本領のガロウェイ地域を実行支配するのみで、究めて不安定な立場にあった。このため12月にアナンに滞在中にアーチボルト・ダグラスの反乱軍に急襲されるとベイリャル軍は四散し、寝入っていたエドワード・ベイリャルは裸でイングランドに逃走したと言われる。
[編集] 空虚な王位
エドワード3世は翌年スコットランドに侵攻しハリダン・ヒルの戦いでスコットランド軍を破り、再びエドワード・ベイリャルを王位に戻したが、実行支配はスコットランド南部と各地の王支配下の城に限られていた。1334年にマリー伯ジョンがフランスの支援を受けてスコットランドに戻って来るとブルース派は勢いづき、エドワード・ベイリャルは耐えられず再びイングランドに逃亡した。1335年からエドワード3世は毎年スコットランドに侵攻したが、ブルース派は戦いを避けてエドワード3世が引返してから再び反抗を始める状態が続き、エドワード・ベイリャルの王権は全く確立できなかった。
1337年から百年戦争が始まるとエドワード3世の関心はフランスに集中され、エドワード・ベイリャルはスコットランドで孤立した。1341年にデイヴィッド2世がフランスの支援を受けて帰国したが、1346年10月にネヴィルズ・クロスの戦いでイングランド軍に大敗し、囚われの身となった。エドワード・ベイリャルがネヴィルズ・クロスの戦いに参加したのかは不明であり、参加していたとしても重要な役割を果たしておらず、この時点では既に利用価値を失っていたと見られている。
[編集] 退位
1350年代に入るとデイヴィッド2世が囚われているにも拘わらず、エドワード・ベイリャルの王権が確立できないことは明らかになり、1356年に退位しエドワード3世に王位と所領を譲ったが、既に実質的な意味は失われていた。1364年に亡くなるまで年金をもらってヨークシャーで隠遁生活を送った。結婚はしておらず、ベイリャル家も断絶した。