アントニオ・ラブリオーラ
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アントニオ・ラブリオーラ(Antonio Labriola, 1843年7月2日 - 1904年2月12日)は、イタリアの哲学者にして社会主義者。イタリアのマルクス主義の父。
[編集] その生涯と思想
ラブリオーラはイタリア中部のカッシーノで生まれた。ナポリ大学で、そのときの新しいイタリア国家をヘーゲルの理想が実現したものとみていたベルトランド・スパヴェンタのもとで、ヘーゲル哲学を学ぶ。スパヴェンタは、自由主義ではあるが民主主義者ではない、歴史的にはヘーゲル右派に属する人々であった。 スパヴェンタのヘーゲル主義に刺激されていたラブリオーラの最初に出版した著作は、ハイデルベルク大学でギリシア哲学を教えていたエドゥアルト・ツェラーへの批判であった。ナポリ大学で、タリ(A.Tari)、デ・サンクティス、スパヴェンタに学んだあと、アウグスト・ヴェラの歴史哲学に関する講義で、1869年に書かれた鋭いヘーゲル批判を知り、ラブリオーラは正統ヘーゲル主義を捨てた。
1870年から1874年にかけて、ラブリオーラは『ガゼッタ・ディ・ナポリ』や『イル・ピッコロ』、『モニトーレ・ディ・ボローニャ』などの自由主義的な政治紙に寄稿をする。これらの記事から、この時期のラブリオーラの哲学的な著述に何度も出てくる話題であり、彼が関心を持って具体的な方法で研究していたことが、一般大衆が必要としていた、知的・道徳的改革として理解された国民教育であることがわかる。1874年にはローマ大学の道徳哲学と教育学の教授となり、のちには哲学・歴史哲学・教育学を講義する。
ラブリオーラは次第に、ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルトの倫理・心理学のおかげで、ヘーゲルの観念論と歴史主義を分離する方向へ、自分の考えを修正した。国家・宗教・学校などは、彼にとって進化した一つの政治戦略を意味するようになった。1880年代後半になり、ガリバルディやバクーニンの活動を背景にした自然発生的な大衆運動が起こるにつれて、ラブリオーラは左翼への共感をおぼえはじめ、「完全な民主主義革命は、都市労働者を防衛することではじめて実現する」と確信した。見たところ、国家は堕落したブルジョアの専有物になりつつあるようだった。1880年から1886年の間に、彼は国家の起源と効用について講義し、「歴史の真の原動力は、人民大衆の政治運動に発見されるものである」という考えが彼の中に熟してきた。それは国家の中にはなく、むしろ科学の中にあるものだ、と。1887年から1890年、ラブリオーラはパリ・コミューンからはじまった国家と市民社会の変化に着目した。現実には社会の広範な層の参加を排除することで、急進ジャコバン主義が、まさに急進的なエリートに好まれていると。社会民主主義のためには、人民の自治政府を樹立することに集中するよりも、むしろ地方政府に参加することを良しとしたところが、彼の特徴であった。このころの彼の思想を理解するには、『歴史哲学と社会主義の問題』(1889年)を読むとよい。
1890年代を通して、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスを研究し始め、現代のもっとも創造的で革命的な力は労働者による社会主義運動であると考えるようになる。エンゲルス、カール・カウツキー、ベルンシュタイン、ジョルジュ・ソレルなど、ヨーロッパ社会主義の主要な解説者たちと密接に文通をおこなった。イタリアは後進国ではあるが、ドイツ社会民主主義がイタリアの模範であり得ると考えた。ラブリオーラは、1891年のローマにおけるメーデーの主な組織者となった。彼の史的唯物論に関するエッセイは、イタリアで書かれた最初のマルクス主義の著作であるばかりでなく、その時代のヨーロッパでもっとも強力なマルクス主義理論家として、ラブリオーラを有名にした。このエッセイの特色は、「新カント派哲学」とマルクス主義とを融和する試みへの反対という点である。彼は疑いもなく、マルクス主義においては倫理よりも科学を強調したかったのだ。
ラブリオーラは、当時イタリアで最も現代的な都市のミラノで『クリティカ・ソシアーレ』誌の編集者をしていた、社会主義指導者のフィリッポ・トゥラーティに呼びかけた。両者の間には注目すべき政治的立場の相違がある。ラブリオーラが少数精鋭の戦闘的なマルクス主義政党を望んでいたのに対し、トゥラーティは実践上の理由から、または革命というより社会改革を好む性格から、多様な構成員に開かれ広範な基盤を持つ政党を目指していた。1892年の党設立大会でトゥラーティは、アナキストを排除することでラブリオーラに譲歩はしたが、政策綱領では多様な要素を残した。1904年に亡くなるまでに、ラブリオーラが政治に直接関わりを持ったのはその時だけである。
彼は知識人の役割とは「歴史の知的解釈者」であり、「難産のささやかな産婆」に限られると考えた。教授としても「教壇の上から政治演説をすることは、狂気の沙汰である」という意見の持ち主であり、その控えめで真摯な性格は、学生たちを魅了していた。ロシアから来た学生で後にロシア革命で高名な演説家・組織者として活躍するアンジェリカ・バラバーノフは、「倫理は、いまや科学をプロレタリアートに奉仕させることにある」「われわれは現代社会が被搾取者と搾取者に分かれていることを学んだ。 搾取される側に立つものは崇高な使命を帯びている」というラブリオーラのことばを伝えている。トロツキーは、1898年にフランス語に翻訳されたラブリオーラのエッセイを独房で読んだ印象を約三十年後に執筆した自伝『わが生涯』の中で、その優雅な文体と輝かしいディレッタンティズム、歴史哲学に応用された弁証法的唯物論の鮮やかさとともに思い起こしている。ラヴロフやミハイロフスキーなどのナロードニキの観念論は、ラブリオーラの「観念は空から降ってくるのではない」という一節の前にまったく影が薄くなってしまった、とも書いている。イタリアの歴史家ベネデット・クローチェ、マルクス主義者のグラムシに与えた影響も重要である。