アルバート・スポルディング
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルバート・スポルディング(Albert Goodwill Spalding、1850年9月2日 - 1915年9月9日)は、19世紀に活躍したアメリカ・メジャーリーグの選手、および監督。選手時代の主なポジションは投手。イリノイ州バイロン生まれ。右投げ右打ち。アメリカプロ野球草創期に活躍し、スポーツ用品メーカーであるスポルディング社の創始者でもある。
目次 |
[編集] 経歴・人物
1865年、15歳の時にロックフォードのユースチームに参加して野球を始める。投打にその才能を見せたスポルディングは、当時アマチュアチームだったロックフォード・フォレストシティーズに2年間所属した後、1871年にボストン・レッドストッキングス(現アトランタ・ブレーブス)に入団、プロ野球リーグへ参加した。レッドストッキングスは当時の野球リーグであるナショナル・アソシエーション加盟チームの中でも最強を誇っていたチームで、レギュラー投手だったスポルディングは1871年から1875年の5年間で205勝もの勝ち星を挙げ、打つ方でも打率3割を超える成績を残していた。当時レッドストッキングスのほぼ全ての試合で投げていたスポルディングは、1875年に年間約80試合のうちの72試合に登板し、55勝5敗という投手成績を残している。
選手として活躍する一方で、スポルディングはスポーツ用品のビジネスを手がけていた。彼の会社"A.G.Spalding & Brothers"は、野球の普及とスポーツ用品の宣伝を兼ね、1874年にイギリスとアイルランドへの野球普及のためのツアーを行っている。また一方で野球の公式ルールガイド(ボールの質の均一化を図る目的で、スポルディング社製のボールのみを使用するルールが書かれていたという)など、野球に関する出版物の発行などもしていた。
1876年にナショナルリーグが創設されると、スポルディングはシカゴ・ホワイトストッキングス(現カブス)の監督兼任選手として迎えられる。1876年4月25日のルイビルとの試合では、ナショナルリーグ史上初の完封勝ちを記録、この年の投手成績は47勝12敗、防御率1.75で、ナショナルリーグ最初の最多勝利投手にもなっている。しかしそれまでずっと肩を酷使してきた反動からか、翌1877年は故障で4試合に登板しただけで、主に内野手として試合に出ていた。1878年、スポルディングはスポーツ用品メーカーの仕事に専念するために28歳の若さで野球選手を引退する。
スポーツ用品のビジネスでも成功したスポルディングは、1882年から1891年の間、選手として所属していたシカゴ・ホワイトストッキングスの理事長職をつとめる。シカゴはスポルディングの経営の元、10年間で5度のリーグ制覇をする強豪チームになっており、スポルディング自身も野球のイメージの改善のため、ギャンブルや野次の排除などに奔走していたそうである。また1888年から1889年にかけて、スポルディングはシカゴの選手達を率いてハワイ、オーストラリア、エジプト、イタリア、イギリスと渡る野球普及のための周遊旅行を行っている。エジプトではピラミッドの1つをバックネットに見立ててゲームをしたそうである。
1905年、スポルティングは「野球起源調査委員会」を設置、2年後の1907年に『ベースボールは、1839年にアブナー・ダブルデイがクーパーズタウンで考案したのがその起源である』とする発表を行う(いわゆる『ダブルデイ説』)。この説は当時国民の多くの支持を得たが、ヘンリー・チャドウィックら一部歴史家が徐々にこの説に異議を唱え始め、後にダブルデイが当時クーパースタウンに居なかったことが判明、説は否定されることになる。
スポルディングは1915年、サンディエゴのポイント・ロマで死去。野球殿堂創設後の1939年に、発展貢献者としてアメリカ野球殿堂入りした。
[編集] 通算成績
※記録は全て1871年以降
[編集] 所属球団
- ボストン・レッドストッキングス(1871~1875年)
- シカゴ・ホワイトストッキングス(1876,1877年)※監督兼任
[編集] 投手成績
登 板 |
先 発 |
投 球 回 |
勝 利 |
完 封 |
敗 戦 |
救 援 |
奪 三 振 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
与 死 球 |
暴 投 |
自 責 点 |
防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
347 | 327 | 2890.2 | 253 | 24 | 65 | 11 | 142 | 3271 | 15 | 156 | - | 1(+) | 686 | 2.14 |
[編集] 打撃成績
- 通算:411試合、1958打数613安打、本塁打2、打点327、打率.313
[編集] 獲得タイトル・記録
[編集] 監督としての戦績
年度 | チーム | リーグ | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 順位 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1876年 | CWH | NL | 66 | 52 | 14 | .788 | 1位 | |
1877年 | 60 | 26 | 33 | .441 | 5位 | |||
通算 | 126 | 78 | 47 | .624 |
[編集] 出典・外部リンク
- baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference
- Baseball Library
先代: n/a |
ナ・リーグ最多勝利 1876年 |
次代: トミー・ボンド |