アルカイク美術
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アルカイク美術 (Archaic Art) とは、ギリシア美術のうち幾何学様式から厳格様式にいたる紀元前700年から紀元前500年頃の美術をいう。
ギリシア語で「古い」「始原の」を意味するアルカイオス (archaios) から派生した語。紀元前8世紀中頃からギリシア人は積極的に海上通商に進出し、イタリア半島南部、小アジア、黒海、地中海東部周辺に多くの植民都市を建設した。その結果、ギリシアとオリエント先進諸国との直接的接触はますます深まり、ギリシア美術はオリエントの造形的要素を吸収して、表現形式や技法にまったく新しい局面を迎えた。オリエント美術の影響はまず陶器にあらわれ、その装飾は幾何学様式時代の抽象的図形から動物、植物、怪物などの東方的モチーフに変化した。これがいわゆる「東方化様式」であり、 プロト・コリント式陶器とプロト・アッティカ式陶器はその代表的なものである。その後、陶器装飾の主題は文様から神話伝説的内容に変わり、紀元前560年から紀元前530年頃にかけてアテネを中心に黒絵式陶器の最盛期を迎えた。
アマシスの画家やリュドス、エクセキアスがすぐれた作品を作ったのはこの時代である。紀元前530年頃には新たに赤絵式の技法が発明され、黒絵に代わって赤絵がしだいに陶器画の主流になっていった。
次いでオリエント(とくにエジプト)の影響は彫刻にあらわれた。紀元前7世紀中頃には、従来の木造彫刻(クソアノン)に代わって大理石を素材とする大型彫刻の製作が始まる。ルーブルの有名な『オーセールの婦人像』は、平板な形態把握、逆三角形の頭部、狭い額、水平線を強調した頭髪の処理などに特徴があり、アルカイク彫刻で最も古いダイダロス様式を代表している。アルカイク時代に奉納像、墓像として多く作られたのは直立する裸体の青年像(クーロス)と着衣の少女像(コレー)である。前者は左脚を少し前に出し、後者は両脚をそろえているが、いずれも体重は両脚に均等にかかり、そのため両肩、腰は水平をなし、身体の中央を通る垂直線を中心に彫像は左右相称的な均整を保っている。しかしながら紀元前6世紀の初期と末期の彫像について、そのプロポーション、頭髪、目や口(アルカイク・スマイル)、筋肉組織、手足の関節部、衣装のひだなどの扱い方などを比べるならば、この1世紀間にギリシア彫刻家の対象を見る目がいかに確実になったかがよくわかる。
大型の石造彫刻が成立した紀元前7世紀中頃、ギリシアの神殿建築もまた従来の日乾鮭瓦や木材を主とした構造からしだいに堅牢な石造に変わり始める。そしてこの過程の中で、木造時代の構造的なごりをとどめたギリシア神殿の基本的形式が定まった。ペロポネソス、イタリア南部、シチリア島では単純、重厚なドリス式神殿(オリュンピアのヘラ神殿、コルフ島のアルテミス神殿、コリントスとデルフォイのアポロン神殿など)が、一方、イオニア人の定着したエーゲ海の島々や小アジアの西岸地方では軽快、優美なイオニア式神殿(エフェソスのアルテミス神殿、サモス島のヘラ神殿、ディデュマのアポロン神殿など)が建てられた。