アラーウッディーン・ハルジー
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アラーウッディーン・ハルジー(علاء الدين خلجی ‘Alā’al-Dīn Khaljī, 1266年? - 1316年)は、ハルジー朝の第2代スルターン(在位:1296年 - 1316年)。
デリー・スルタン朝に加わったテュルク系部族集団ハルジーの出身で、奴隷王朝を滅ぼしてハルジー朝を開いたジャラールッディーン・ハルジーの甥にあたり、娘婿でもあった。1296年にデカン高原遠征を率いて大勝を収め、ハルジー朝における自身の実力を確固たるものとした。そして同年、伯父のジャラールッディーンを軍隊の支持のもとに暗殺し、自らスルターンとして即位した。
即位後は、1299年~1303年のラージプート遠征によってパラマーラ朝、チャンデーラ朝など北インドの有力な諸王朝を滅ぼすとともに、マリク・カーフールを遣わして積極的な南インド遠征を行なった。1307年にヤーダヴァ朝に壊滅的な打撃を与え、王ラーマチャンドラを捕らえてデリーへ連行し、1310年には、カーカティヤ朝の首都ワランガルを陥落させ、はるか南方のホイサラ朝を攻略し、バッラーラ3世をデリーまで連行している。このようにインド亜大陸南端近くまで征服し、南インドのヒンドゥー系王朝を属国化した。また、現在のアフガニスタンの山岳地帯に駐留してインドへの侵入を繰り返すモンゴル軍を撃退して譲らず、事実上のインド統一を実現した。
内政面においては、スパイ網と密告制度によるテュルク系の貴族の統制、地方の農村で中間支配層となるヒンドゥー教徒の領主・地主層の抑圧を行ってスルターン権力を強化し、厳しい物価統制や検地の実施による税収の安定強化をはかり、強大な直属軍をつくって反乱を防ぐなど、強権的な政策をとった。また、南インド遠征の成功により、北インドには莫大な戦利品がもたらされたので、ハルジー朝は文化的・経済的にも大きく繁栄し、版図的にもデリー・スルタン朝の最盛期を実現した。
晩年のアラーウッディーンは奢侈に走るようになり、強権を背景に自身の姿を移した貨幣を鋳造したり、イスラムからの逸脱をあらわにするなど失政を繰り返して、貴族たちの不満を鬱積させていった。1316年にアラーウッディーンが死去すると、宦官や貴族たちの間での内紛がたちまち起こり、その死からわずか4年後の1320年にハルジー朝は滅亡した。