アブドゥッラー=イブン・アッズバイル
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アブドゥッラー=イブン・アッズバイル (عبد الله بن الزبير、Abdullah ibn az-Zubayr、624年-692年)はイスラーム教のカリフの一人。
683年にウマイヤ朝のウンマ(イスラーム共同体)統治に異議を唱えて反乱を起し、メッカでカリフに即位した。但し、当時のウマイヤ朝のカリフはムアーウィヤ2世であり、正当なカリフとして見られることは稀である。
アッズバイルの父は656年の"駱駝の戦い"で戦死したハディージャの甥の子ズバイル (Zubayr ibn al-‘Awwām) で、母は初代正統カリフであるアブー=バクルの長女であった為クライシュ族の血を引くもの(ムハンマドの近親とその子孫)というカリフの条件を満たしていた。彼のカリフ宣言後、ウマイヤ家に不満を抱く、シリア、イラク、エジプトなどヨルダン以外の各地のムスリムが彼のもとに忠誠の誓い(バイア)をし、二人のカリフが存在するという状態が起こった。(第二次内乱の始まり)
イブン・アッズバイルはイラク、エジプトを制覇し、シリアの半分以上をその最大勢力範囲に治め、一時はウマイヤ朝を圧倒するほどの勢力を見せたが、その後、アブド・アルマリクのもとで攻勢に転じたウマイヤ朝によってその領地は取り返されていき、最後は聖地メッカ周辺のみを領有するだけとなった。
アブド・アルマリクはハッジャージュ・ブン・ユースフ(al-Ḥajjāj ibn Yūsuf)を司令官とする2千のウマイヤ朝軍をメッカのカリフ、イブン・アッズバイルのもとに差し向け、メッカを包囲し、弩弓(どきゅう)(石弓、弩)による投石でメッカの守備隊、カーバ神殿などを攻撃させた。そのため、メッカの守備隊は苦戦を強いられ、壊滅した。カーバ神殿も大きく被害を受けた。
692年、こうした中で、イブン・アッズバイルはハッジャージュ・ブン・ユースフによって、メッカを6ヶ月包囲されたのち、戦死を遂げた。(第二次内乱の終結)