アッバース1世
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アッバース1世(1571年1月27日 - 1629年1月19日)は、サファーヴィー朝の第5代皇帝(在位:1588年 - 1629年)。
この頃、王朝はオスマン帝国の侵攻にあってアゼルバイジャンやグルジアを失い、衰退していた。そのようなとき、アッバース1世は1588年、17歳の若さで即位することとなったのである。アッバース1世は帝国を建て直すため、まずは内政改革を行なう。王朝創建以来、権力を牛耳っていた軍事貴族(キジルバシ貴族)を弾圧して政治から遠ざけ、代わって奴隷身分の優れた人材を多く登用したのである。地方長官にも家柄ではなく能力が重んじられて、奴隷階級出身者が数多く地方長官に任じられている。1598年にはガズヴィーンからイスファハーンに遷都する。アッバース1世の治世のもとでイスファハーンは壮大華麗、大いなる繁栄を遂げたため、「世界の半分」(エスファハーン・ネスフ・エ・ジャハーン)とまで称された。
こうして内政を整えたアッバース1世は、いよいよ対外遠征に臨んだ。まずは宿敵・オスマンと戦ってこれに勝利し、奪われていたアゼルバイジャンを取り戻した。さらにオスマンとの戦いを優位に進めた後、1618年に自国有利の和睦を結んでいる。さらに1622年、イギリスと結び、ポルトガルと戦ってホルムズ島を奪い、帝国を脅かしていたウズベク族までもを討伐した。そのうえで西欧諸国のイギリス、オランダ、フランスと同盟を結び、友好関係を築いた。特にイギリスはサファーヴィー朝の実力を認め、1616年から1617年にかけて何度も特使を派遣している。
1629年、58歳で死去。サファーヴィー朝の黄金時代を築き上げた名君として賞賛され、「大王」の称号を与えられた。アッバース1世の軍事的成功は、西欧諸国との同盟によるところが大きいとされる。特に軍事革命の先駆者オランダの影響が最も強かったと言える。しかし名君の死は、中興の終焉を意味した。間もなくオスマン帝国の逆襲が開始され、10年も経ずにイラクは奪還された。アッバース1世の死は、サファーヴィー朝の没落を意味し、滅亡への道を緩やかに歩んで行った。
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