なだしお事件
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なだしお事件( - じけん)は1988年7月23日に海上自衛隊潜水艦と遊漁船が衝突し、遊漁船が沈没した海難事故。
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概要
1988年7月23日、横須賀港北防波堤灯台東約3km沖で、海上自衛隊第2潜水艦群第2潜水隊所属・潜水艦「なだしお」(SS577、排水量2250トン)と遊漁船「第一富士丸」(154総トン、全長28.5m)が衝突し、第一富士丸は沈没した。なだしおは伊豆大島北東沖での自衛艦隊デモ訓練を終えて横須賀へ帰投中。第一富士丸は横浜から大島に向かっていた。
乗客39、乗員9(定員超過)のうち30名が死亡、17名が重軽傷を負った。死者のうち、28名は沈没した船体の中から、1名は現場付近の海中から遺体で発見された。残りの1名は救助後病院で死亡。
さらになだしおの艦長らが衝突時の航海日誌を後に改竄していた事や、なだしおの軍事機密とされる旋回性能の検証開示を行わせたことでも話題となった。この事件によって瓦力防衛庁長官が引責辞任をした。
判示・判決
海難審判庁は、両者について海難審判を開始した。1990年8月10日、高等海難審判庁は採決において、なだしおの回避の遅れと、第一富士丸の接近してからの左転に問題があったと判示した。その後の東京高等裁判所の判決では、事故の主因はなだしお側にあったと認定された。 この事件が多くの被害を出したのは、轟沈とよばれる短時間での沈没であったことと、そのため船内にいた人が脱出の機会を失ったこと、また救命胴衣の着用がなく脱出した者も力つきて溺れたことなどが挙げられている。
当事マスコミなどでは、「潜水艦の船員たちは沈没していく第一富士丸を悠々と眺めていただけ」などと報道され、「艦長はかなづち(だから救助命令を出せなかった)」と都市伝説まで誕生したが[1]、その後の調べでマスコミの報道が誤報であることが示されている[2]。この件については海事審判にてなだしお側が、
- そもそも現在の潜水艦にはボートが艦内に格納されているゴムボートしかなく、その搬出に手間取った。
- 衝突時などの救助訓練が訓練メニューにない(艦長はその点直ちに行動に移れなかった)。
- 乗員は艦長の許可なく救助活動にあたれない(商船は各自の判断でやってよい)。
などと反論している(艦長の過失についての抗弁)。
刑事事件としては、1992年12月10日、横浜地方裁判所がなだしお元艦長に禁錮2年6ヶ月執行猶予4年、第一富士丸元船長に禁錮1年6ヶ月執行猶予4年の判決を下した。