AC/DC
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AC/DC | |
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基本情報 | |
出身地 | オーストラリア シドニー |
ジャンル | ハードロック ロックンロール ブルースロック ヘヴィメタル |
活動期間 | 1973年〜現在 |
レーベル | アルバート アトランティック アトコ エレクトラ イースト・ウエスト EMI エピック |
公式サイト | acdcrocks.com |
メンバー | |
アンガス・ヤング マルコム・ヤング ブライアン・ジョンソン クリフ・ウィリアムス フィル・ラッド |
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旧メンバー | |
ボン・スコット デイヴ・エヴァンス マーク・エヴァンス クリス・スレイド サイモン・ライト |
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AC/DC(エーシーディーシー)は、ロックバンドである。アンガス・ヤング、マルコム・ヤングのヤング兄弟を中心にオーストラリアのシドニーで、1973年12月に結成された。
バンド名の由来は、掃除機の裏側に書かれていた「AC/DC」による。ヤング兄弟の姉が、大音量で演奏していた彼らを掃除機の喧しさに例えて名付けたもの。
「AC/DC」とは、本来「交直両用」の意であるが、バイ・セクシャルを表す隠語(日本語の両刀使いに近いニュアンス)でもあったため、バンド初期には勘違いしたゲイバーからの出演依頼がたびたびあった。
目次 |
[編集] バイオグラフィー
スコットランドのグラスゴーで生まれたアンガス、ジョージ、マルコムのヤング兄弟が家族と共にオーストラリアのシドニーに移住したのは1963年のことである。
一番最初に楽器を手にしたのはジョージであった。その後、彼は60年代にオーストラリアで有名であったThe Easybeatsのリズムギターとして活躍する(ジョージとThe Easybeatsのリードギタリスト、Harry Vandaはその後、初期AC/DCのアルバムプロデューサーとして活躍する事となる)。アンガスとマルコムが彼に続くのに時間はさしてかからず、兄弟が組んだ最初のバンドの名はThe Velvet Underground(ニューヨークのパンク・バンドとは同名異バンド)。
[編集] バンド結成当初
1973年11月、マルコムとアンガスはベースにLarry Van Kriedt、ボーカルにDave Evans、ドラムにColin Burgessを迎えAC/DCを結成、初のライブは1973年12月31日、シドニーのChequersというクラブで行った。程なくしてバンドはEMIがオーストラリアとニュージーランドで配給を行っていたローカルレーベル「Albert Records」と契約を結ぶ。最初期のラインナップは安定しておらず特にドラムとベースは頻繁に入れ替わっていおり、Colin Burgessにいたっては数週間しか在籍しなかった。この状態は約1年程続いたようである。またアンガス兄弟はゲーリー・グリッターの様なグラムロッカーからの影響が強かったDave Evansはバンドに合っていないと結成直後から考えおり、バンドのマネージャーだったDennis Laughlinが彼の代わりにステージに上がるという事もあった(この事がボーカリスト交代劇の伏線となっておりDave EvansはDennis Laughlinを酷く恨んでいたという)。
バンドのトレードマークとも言えるアンガスのスクールボーイスタイルの衣装はこの頃から既に試されており、アンガス自身の中学校の制服とシドニーにあるアッシュフィールド高校の制服を使用していた(このスタイルは彼の姉であるマーガレット・ヤングの提案によるものである)。ただ当時はこの衣装だけでなく、ゴリラや怪傑ゾロ、スーパー・アングなるスーパーマンのパロディーの様な物まで衣装にしていた。
この頃、バンドの器材車のドライバーをしていたのはあのボン・スコットだった。
[編集] ボン・スコットの加入(1974年〜1980年)
1974年9月、バンドはDave Evansに代わり(Daveはシングル盤1枚だけの参加であった)、オーストラリアでいくつかのバンドで経験のあるボン・スコットをボーカリストとして迎え、翌1975年1月に、たった10日間でレコーディングした1stアルバム「ハイ・ヴォルテージ(High Voltage) 」をリリース(当初はオーストラリアのみのリリースだった)した。このアルバムからは「It's a Long Way to the Top (If You Wanna Rock 'n' Roll)」がシングルカットされ、B面には2ndアルバムのタイトルトラック「T.N.T.」が収録されている。このころからラインナップは安定し、アンガス兄弟、ボン、フィル・ラッド(ドラム)、マーク・エヴァンス(ベース)の編成が暫く続くこととなる。同年12月には2ndアルバム「T.N.T.」をリリース。
また1974年と1977年に、オーストラリアで全国放送されていた音楽番組「Molly Meldrum's Countdown」に出演しライブ演奏を行っており、この頃には名実共にオーストラリアで最も成功したバンドとなっている。これ以降、バンドはテレビ番組でのライブ演奏を行っていない。
[編集] 世界的な成功(1976年〜1978年)
1976年、バンドはアトランティック・レコードと世界規模のレコード契約を結ぶ。これによりバンドは キッス、エアロスミス、スティクス、ブルー・オイスター・カルトらの前座としてイギリス、ヨーロッパのスタジアムクラスの会場をサーキットすることとなる。1976年9月28日には「ハイ・ヴォルテージ」と「T.N.T. 」の楽曲から再構成されたコンピレーション・アルバムをアトランティック・レコードから全世界でリリース。タイトルは1stアルバムと同じく「High Voltage」である。同アルバムは現在まで300万枚以上を売り上げている。同年には早くも次のアルバム「悪事と地獄(Dirty Deeds Done Dirt Cheap)」をリリース。このアルバムは現在流通している通常盤の他にオーストラリア盤が存在し、ジャケットと収録曲がそれぞれ異なっている。(なおこのアルバムがアメリカでリリースされたのは1981年であり、その前年に発売され、売れに売れていた「バック・イン・ブラック(Back In Black)」の余波を受けて、この作品もロングセラーを記録している)この様なバージョン違いの存在は次のアルバム「ロック魂(Let There Be Rock)」まで続いている。
「ロック魂」のレコーディング終了後、アンガス・ヤングとの不仲が原因でマーク・エヴァンスが解雇され、後任としてクリフ・ウィリアムス加入。
[編集] アメリカでの成功(1977年〜1978年)
AC/DCは1977年にミシガン州のFlint's Capitol Theaterでアメリカでの初ライブを行った(前座はMC5)。
1978年、クリフ・ウィリアムズ加入後初のアルバム「パワーエイジ(Powerage)」をリリース。同アルバムに伴うツアー中にグラスゴーのアポロシアターでレコーディングされたライブ盤「ギター殺人事件(If You Want Blood)」を同年にリリース。1stアルバムから続いたHarry Vandaとジョージ・ヤングによるプロデュースはこのアルバムまでとなる。
1979年、6枚目のアルバム「地獄のハイウェイ(Highway To Hell)」をリリース。プロデューサーはジョン・マット・ラング。このアルバムはアメリカで発売された最初のアルバム(最高位は17位)で、彼らの出世作。また、その後の音楽性の礎ともなっており、AC/DCのバンドサウンドが完成されたアルバムである。バンドが世界的な人気を得るのは、もはや時間の問題であった。
[編集] ボン・スコットの死(1980年)
1980年2月19日、ボン・スコットが友人の車中で死亡しているのが発見された。原因は睡眠中、嘔吐物を喉に詰まらせての窒息死であった。その夜、ボン・スコットはロンドン市内で友人のアリステア・キニアーと飲酒後、彼の車で帰宅。アリステアが車中で寝てしまったボンを残し車を離れた後に起こった出来事であった。ボンは彼が子供時代を過ごしたオーストラリアのフリマントルに埋葬された。
彼の死にはヘロインの過剰摂取や、排気ガスを引き込んでの自殺等、様々な噂があり、中には友人のアリステア・キニアーは存在しない人物であるというものまであった。しかしボン・スコットは喘息持ちで、彼が発見された朝は気温が零下を下回っていたことから、発作によって引き起こされた可能性が大きいとされている。
彼の墓は、観光地として人気であり、年に数多くの観光客が参拝に訪れる。
[編集] 新しい声
ボン・スコットの死後、バンドは解散する事も考えたが、ボンはバンドを続ける事を望んでいるだろうという結論に至り、活動を継続する事を決定した。ボンの後任として最初にBack Street CrawlerのTerry Slesserにバンド加入のオファーを出すも、既に確立されたバンドには加入しないという考えから断られた(その後ソロキャリアで成功を収めており、アイアン・メイデンがカバーしたRainbow's Goldは彼の作品である)。また元MoxyのBuzz Shearmanにも断られている。そして最後にマネージャーから推薦されたイギリスのグラムロックバンド『ジョーディー』のブライアン・ジョンソンの加入を決定する(ただしバンド側は当初ジョーディー時代のイメージから彼の加入には懐疑的だったようだ)。オーディションでブライアンはWhole Lotta Rosieとアイク・アンド・ティナ・ターナーのNutbush City Limitsを歌っている。
[編集] ブライアン・ジョンソン加入後(1980年〜)
ボン・スコット存命中に既に楽曲を完成させていたバンドは、ブライアン加入後、間を置かずレコーディングに入る(ボンが死亡してから数ヶ月後の事である)。プロデュースは前作と同じくジョン・マット・ラングが担当。アルバムは1980年7月25日に「バック・イン・ブラック(Back In Black)」のタイトルでリリースされる。「スコットの死を売り物にしたくない」というバンド側の意向により、喪を表す黒いジャケットと冒頭に流れる教会の鐘を思わせる鐘の音が収録されているのみでスコットの死を悼む曲は存在しないが、逆に飲酒を勧める歌があるのには多くの人が驚かされた。売り上げはこれまでに世界で4300万枚を超え、バンドにとって最大のヒット作となっている(イギリスでは最高1位、アメリカでは最高4位)。
翌年1981年には「悪魔の招待状(For Those About To Rock(We Salute You))」をリリース。
[編集] フィル・ラッドの解雇(1983年)
1983年、フィル・ラッドのアルコール依存症とドラッグによるパラノイアの症状が深刻化、バンドとの間に亀裂が生じ、既に次作のレコーディングが終了していたにもかかわらず解雇となる。後任はNWOBHM時代に活躍した『A II Z』などの活動で知られるサイモン・ライト。そして同年「征服者(Flick Of The Switch)」をリリース。このアルバムはそれまでの作品ほどは成功せず、ある批評家からは「同じアルバムを9枚作った」と揶揄され、同年のケラング!読者投票でBiggest Disappointment Of The Year (最も失望した事)の8位に選ばれた。その後、バンドは暫く低迷を続ける事となる。同年E.P.「74' ジェイルブレイク(74' Jailbreak)」をリリース。
1985年、「フライ・オン・ザ・ウォール(Fly On The Wall)」をリリース。プロデュースはヤング兄弟。
1986年、スティーブン・キング監督映画『地獄のデビルトラック』のサウンドトラック「フー・メイド・フー(Who Made Who)」をリリース。
1988年に『オーストラリアレコード産業協会(ARIA)』のARIA Hall of Fameに選ばれる。
[編集] 再ブレイク(1988年〜2000年)
1988年、フランスにて新作「ブロウ・アップ・ユア・ヴィデオ(Blow Up Your Video)」のレコーディングを開始。プロデュースは初期の作品を担当していたHarry Vandaとジョージ・ヤング。このアルバムは好評を博し、「バック・イン・ブラック」に次ぐヒットとなる(イギリスでは最高4位、アメリカでは最高12位)。
1988年、同アルバムに伴うツアーをオーストラリアのパースから開始。しかし4月、ヨーロッパでの公演終了後、アルコール依存症の治療に専念するためマルコム・ヤングが一時的にバンドを離れる。後任はヤング兄弟の甥、スティーブ・ヤングが務めた。さらにサイモン・ライトがディオの新作レコーディングに参加する為に脱退。後任はベテランセッションドラマー、クリス・スレイド。
ツアー終了後、次作の制作を開始。プロデューサーはエアロスミスやボン・ジョヴィとの仕事で知られるブルース・フェアバーン。1990年、「レイザーズ・エッジ(The Razor's Edge)」をリリース。アメリカでは売り上げ300万枚を突破し、前作以上の大ヒットとなった。(イギリスでは最高4位、アメリカでは最高2位)なお同作品は離婚協議中だったブライアンが曲作りに参加出来ず、全曲ヤング兄弟が制作した。また同年、アーノルド・シュワルツェネッガー主演映画「ラスト・アクション・ヒーロー」のサウンドトラックに「ビッグ・ガン(Big Gun)」を提供した。
1994年、フィル・ラッドが復帰。ヤング兄弟は彼とジャムセッションし、彼の復帰を決定した。アンガス・ヤングは「クリスはこのバンドで最も優れたミュージシャンだった。彼を失うのは辛いが、フィルを復帰させる事はそれだけ価値がある事だ」とコメントを残している。
1995年、ザ・ブラック・クロウズやスレイヤーとの仕事で知られるリック・ルービンをプロデューサーに迎えたアルバム「ボールブレイカー(Ballbreaker)」をリリース。このアルバムもアメリカでは最高4位を記録するヒット・アルバムとなる。
1997年、ボン・スコットへのトリビュートで制作されたCD5枚組ボックス・セット「ライヴ〜ボン・スコットに捧ぐ(Bonfire)」をリリース。
2000年、ジョージ・ヤングをプロデューサーに迎えたアルバム「スティッフ・アッパー・リップ(Stiff Upper Lip)」をリリース。(こちらはアメリカで最高7位を記録している)
[編集] 音楽的特徴、エピソードなど
レッド・ツェッペリンの特徴の一つである「ブルースを基調とした骨太でソリッドなロック」の部分を、よりプリミティヴに取り出し徹底させた音楽的特徴はデビュー以来、現在に至るまでタテノリのハードロック、ヘヴィメタルを中心に演奏し続け、時にブルース調の曲を演奏する事もあるが、モーターヘッドと同様に昔も今もあまり変わっていない音楽性が特徴なので、それゆえにほとんどファンも減る事なく、むしろ増やし続けていると思われる。
70年代末、パンクロックブームに沸くイギリスでは、それ以前に活躍したハードロックバンドがオールドウェイブと揶揄され消えていく中、AC/DCは生き残る事に成功する。それはバンドが熱狂的なファンをイギリス全土で獲得していた為であるが、ファンや音楽誌などからパンクと同一視されたという側面もあった。特にライブでのパフォーマンスはパンク的な印象が強く、ボン・スコットのパフォーマンスはセックス・ピストルズのジョニー・ロットンを強くイメージさせた。一方でアンガス・ヤングは観客に向かって尻をさらすパフォーマンスで悪名高かった。また、高い演奏技術や凝った楽曲への志向よりも、ノリの良さを重視したAC/DCの音楽性は、パンクロックと相性が良かった。ラモーンズのジョーイ・ラモーンをはじめとして、AC/DCを敬愛するパンクロッカーも多い。
1973年にデビューして以来、楽曲やライブでのパフォーマンスなどによって欧米にも人気を広げていったが、1980年にボーカルのボン・スコットが急死し、危機にたたされる。しかし新ボーカリスト、ブライアン・ジョンソンを向かえて発表した『Back in Black』は、世界的に大ヒットし(米国でのセールスは2100万枚を超え、第5位であり、世界でのセールスはマイケル・ジャクソンのスリラーに次いで第2位とされている)次作『For Those About to Rock』では初のビルボード1位を獲得した。今日でも全米チャートの上位常連であるが、日本での人気は欧米ほど高くなく、また彼らの全盛期であった1980年前後、日本ではクイーンの様な、ルックス的にも音楽的にも華やかなバンドが人気で、AC/DCの様なバンドは人気がないというバンド側の先入観もあり、2001年の来日公演は実に19年ぶりであった。ただし、コアなファンを生み出していることも事実で、山下達郎も彼らに賛辞を惜しまないという。
アンガス、マルコム、ブライアン以外はメンバーチェンジが行われたが、90年代に初期メンバーに戻った。
特に90年代以降、ブライアンの声の調子が芳しくないこと、2000年以降ニューアルバムが発表されていない(製作されているらしいともいわれている)ことなどから解散が危ぶまれているが、本人たちはまだまだ現役でやっていくつもりのようである。
アルバム総売上はアメリカ合衆国だけで6800万枚に及ぶ。[1] 全世界のアルバム総売り上げは1億5000万枚以上である。 多くの同業者から尊敬を集めるバンドであり、キース・リチャーズ、ピート・タウンゼント、スティーヴン・タイラー、オジー・オズボーン、ニッキー・シックス、リッチー・サンボラ、スラッシュ、カート・コバーンを始め世界中のアーティストがファンを公言している。
映画『スクール・オブ・ロック』では、エンディングに彼らの曲「It's The Long Way To The Top」のカヴァー(演奏したのは同映画のキャスト)が使われ、劇中でも「Back In Black」が使われた。
数年前から世界的なムーヴメントとなっているガレージロックの、音楽的なルーツの一つでもある。
サンプリングやカバー曲には殆ど許可を出さない。ビースティボーイズが彼らの楽曲をカバーしたことはあるが、アルバムに収録することは許可を出さず、シングルのB面としてリリースされている。
アンガス、マルコム共にヤング兄弟が使用するギターはデビューしてからずっとアンガスはギブソンのSG、マルコムはグレッチ一筋である。
バンドのロゴマーク等はTシャツなどに多用されており、テレビ番組の衣装などでも度々見られる。
2004年10月1日には、ゆかりの地であるオーストラリア・メルボルンにあるコーポレーション通りという名前だった通りが、彼らの功績を称え、敬意を表して同市議会によってACDC通りと改名された。これより前の2000年3月22日にもスペインのマドリード近郊の住宅街レガネスにもバンドにちなんだ同名の通りができていたため、AC/DCの名が付いた通りは現在までに世界で2つ存在している。[2]
[編集] メンバー
- アンガス・ヤング (Angus Young) リードギター 1973-
- マルコム・ヤング (Malcolm Young) リズムギター 1973-
- ブライアン・ジョンソン (Brian Johnson) ボーカル 1980-
- フィル・ラッド (Phil Rudd) ドラム 1973-1983, 1994-
- クリフ・ウィリアムス (Cliff Williams) ベース 1978-
元メンバー
- ボン・スコット (Bon Scott) ボーカル 1974-1980、故人
- マーク・エヴァンス (Mark Evans) ベース 1973-1977
- サイモン・ライト (Simon Wright) ドラム 1984-1989
- クリス・スレイド (Chris Slade) ドラム 1989-1994
[編集] ディスコグラフィ
- 1974年 「ハイ・ヴォルテージ」 High Voltage *オーストラリア盤
- 1975年 「T.N.T.」 T.N.T *オーストラリア盤
- 1976年 「ハイ・ヴォルテージ」 High Voltage
- 1976年 「悪事と地獄」 Dirty Deeds Done Dirt Cheap
- 3位 6Xプラチナム(US), シルバー(UK)
- 1977年 「ロック魂」 Let There Be Rock
- 154位 2Xプラチナム(US), 17位 シルバー(UK)
- 1978年 「パワーエイジ」 Powerage
- 133位 プラチナム(US), シルバー(UK)
- 1978年 「ギター殺人事件」(ライブアルバム) If You Want Blood
- 113位 プラチナム(US), 13位 ゴールド(UK)
- 1979年 「地獄のハイウェイ」 Highway to Hell
- 17位 7Xプラチナム, 8位 ゴールド(UK)
- 1980年 「バック・イン・ブラック」 Back in Black
- 4位 22Xプラチナム, 1位 ゴールド(UK)
- 1981年 「悪魔の招待状」 For Those About to Rock (We Salute You)
- 1位 4Xプラチナム, 3位 ゴールド(UK)
- 1983年 「征服者」 Flick of the Switch
- 15位 プラチナム, 27位 ゴールド(UK)
- 1984年 「'74 ジェイルブレイク」'74 Jailbreak
- 76位 プラチナム(US), 66位(UK)
- 1985年 「フライ・オン・ザ・ウォール」 Fly on the Wall
- 32位 プラチナム(US), 8位 シルバー(UK)
- 1986年 「フー・メイド・フー」(サウンドトラック) Who Made Who
- 33位 5Xプラチナム(US), 24位(UK)
- 1988年 「ブロウ・アップ・ユア・ヴィデオ」 Blow Up Your Video
- 12位 プラチナム(US), 2位 ゴールド(UK)
- 1990年 「レイザーズ・エッジ」 The Razor's Edge
- 2位 5Xプラチナム(US), 4位 ゴールド(UK)
- 1992年 「ライヴ」 Live
- 15位 3Xプラチナム(US), 5位 ゴールド(UK)
- 1995年 「ボールブレイカー」 Ballbreaker
- 4位 2Xプラチナム(US), 6位(UK)
- 1997年 「ライヴ〜ボン・スコットに捧ぐ」 Bonfire
- 2000年 「スティッフ・アッパー・リップ」 Stiff Upper Lip
- 7位 プラチナム(US)
[編集] 日本公演
- 来日中止1979年 5月19日 中野サンプラザ、5月21日 大阪毎日ホール、5月22日 渋谷公会堂
- 1981年 2月1日 大阪万博ホール、2月2日 愛知県勤労会館、2月4日,5日 日本青年館
- 1982年 6月4日 大阪フェスティバルホール、6月6日 大阪万博ホール、6月8日 京都会館、6月9日 名古屋市公会堂、6月10日 日本武道館
- 2001年 2月19日,20日 横浜アリーナ、2月22日 大阪城ホール
[編集] 脚註
- ^ Totals are derived from cumulative album sales totals (U.S. only) (RIAA)
- ^ 音楽サイト BARKS - AC/DC AC/DC、豪メルボルン市のストリート名に (日本語)
[編集] 外部リンク
- AC/DC公式ページ (英語)
- AC/DC - WARNER MUSIC JAPAN公式サイト (日本語)
- AC/DC at Wiki Guitar - AC/DCのギターコード集
- AC/DC歌詞
- AC/DC News - AC/DC ニュース