足尾台風
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足尾台風 | |
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タイフーン (SSHS) | |
発生期間: | 1902年(明治35年)9月28日前後 |
寿命 | - |
最低気圧: | - |
最大風速: (気象庁解析) |
- |
最大風速: (米海軍解析) |
- |
被害総額: | -
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死傷者数: | - |
被害地域: | 関東地方・東北地方南部 |
足尾台風(あしおたいふう)は、1902年(明治35年)9月28日に千葉県から新潟県、北海道北部を通過し、主に関東地方から東北地方南部にかけて被害をもたらした台風である。
目次 |
[編集] 概要
発生の時期・場所については明らかではない。最初に現れるのは9月28日の払暁、八丈島の北東である[1]。その後の進路は中央気象台『気象要覧』によると、以下のようになっている(日時はすべて日本時間)。
- 1902年(明治35年)9月28日
なお、当時は「台風」という用語がなく、名称の「足尾台風」は、栃木県足尾付近の被害が甚大だったことから後に付けられたものである。
[編集] 藤原の効果
この当時、この台風とは別に、もう一つの台風がフィリピン・ルソン島の東方に9月21日発生していたが、進行速度は毎時5~6海里(約9~11km)ほどであった。これに対し、同時期その東側にあった足尾台風は、本州通過時の進行速度が毎時約25里(98km)と、ルソン沖の台風に比べかなり速いものであった。
これは、両台風間に「藤原の効果」が働いた結果、足尾台風の方が増速したのではないかと考えられている。記録に残る台風の中では同現象の見られる最古の事例といえる[2]。
なお、ルソン沖にあった台風の方は、9月26日には琉球の南東遙か沖を北上。そして9月28日、足尾台風が東日本地域を縦断して日本海へ抜けた後の15時に中心が潮岬の東方に上陸。大王崎の西方、彦根付近、福井の東方、金沢の西方を経て能登半島を横断し、23時には佐渡島の北方に抜けている。
[編集] 被害
風水害は千葉県、茨城県、群馬県、福島県、山形県等にも渡り、死傷者、家屋の損壊、汽車の転覆、煙突の破壊、巨樹の倒壊等の被害が出たとされる。
[編集] 神奈川県
詳細は小田原大海嘯を参照
相模湾では満潮時に当たり、高潮が発生した。また、横浜港では、暴風により、桟橋に停泊中だったドイツ郵船の「プロイセン号」が流され浅瀬に吹き付けられ、汽船「カーリー号」も防波堤に吹き付けられた。その他小型蒸気船や臨時税関の工事船が沈没したという[1]。
[編集] 栃木県
死者・行方不明者219名、家屋の全壊・流失約8,200戸、足尾で315ミリの雨量を記録した[3]。渡良瀬川が洪水となり、足尾での被害が大きかったことが後にこの台風の名称となった。足尾町内では神子内尋常小学校が流出するなどした[4]。
また、日光中宮祠では土石流が発生。中禅寺湖に流れ込んだ土砂が3mの高波を起こし、旅館などで被害者を出した[5]。この波は華厳滝を越えて大谷川に流れ込み、神橋、大谷橋が流失。含満ヶ淵の「並び地蔵」も流失した[6]。裏見滝はこの台風がもとで姿を変えたという[5]。
現在、栃木県立真岡高等学校にある登録有形文化財「真岡高校記念館」は、この台風で損壊した校舎を翌年建て直したものである[5]。
[編集] 茨城県
死者・行方不明者118名、家屋の全壊・流出20,164戸を記録した[5]。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ a b 神奈川県測候所『明治三十五年九月二十八日神奈川県下暴風海嘯被害記事』、1902年。
- ^ 能天気Express - メルマ!
- ^ 宇都宮地方気象台「栃木県内のおもな気象災害」
- ^ 日光市/旧足尾町歴史年表
- ^ a b c d 真岡市立中村小学校「明治35年9月28日の暴風雨」
- ^ 国土交通省関東地方整備局日光砂防事務所/日光の詩話
[編集] 参考文献
- 中央気象台『気象要覧 明治33年・34年・35年』クレス出版、2003年。