藤原せい子
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藤原 娍子(ふじわら の せいし/すけこ)、天禄3年(972年) - 万寿2年3月25日(1025年4月25日))は平安時代中期、第67代三条天皇皇后。父は贈右大臣藤原済時、母は源延光女。
三条天皇の皇太子時代に最初の妃として入内、宣耀殿女御と称した。美貌であったといい天皇の寵愛も篤く、敦明親王(小一条院)を始め、敦儀親王、敦平親王、師明親王(性信入道親王)、当子内親王(伊勢斎宮)、禔子内親王(藤原教通室)ら四男二女をもうけた。しかし父済時の死後は後見も弱く、ことに左大臣藤原道長が娘妍子を後宮に送り込み中宮に立てたため、その権勢に押されがちであった。これに対して三条天皇は、大納言で没した父済時に右大臣を追贈することで娍子を皇后に立てたが、立后当日も道長の妨害に遭い、儀式に参列した公卿は、弟の藤原通任以外には藤原実資・藤原隆家・藤原懐平のみの侘しさだった。その後三条天皇の譲位により、長男敦明親王が後一条天皇の皇太子となるものの、上皇の没後に敦明親王自ら皇太子を辞去、また前斎宮の長女当子内親王が藤原道雅と密通するなど、皇后でありながら不遇な生涯を送った后であった。
- 正暦2年(991年)、皇太子居貞親王(後の三条天皇)に入内。
- 長徳元年(995年)、父・済時死去。
- 寛弘8年(1011年)、三条天皇践祚で女御宣下。
- 寛弘9年(1012年)
- 1月、従四位下
- 4月、皇后となる。
- 長和5年(1016年)、三条天皇譲位。敦明親王立太子。
- 寛仁元年(1017年)、三条上皇崩御。同年敦明親王が皇太子を辞する。
- 寛仁2年(1018年)出家。
- 万寿2年(1025年)3月25日、薨去。享年54。