直良信夫
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直良 信夫(なおら のぶお、 1902年1月1日(戸籍上は10日) - 1985年11月2日)は日本の男性考古学者、動物考古学者、古生物学者、文学博士。明石人、葛生人などの発見で知られる。また、従来の日本考古学では等閑に付されていた、遺跡から出土する骨や種子といった、動物植物の様々な遺骸を考古学的に研究し、過去の食物や環境復元を進めた。特に貝塚研究では先駆的業績をあげ、今日の動物考古学や環境考古学の礎(いしずえ)を築いた。明石市文化功労賞受賞。なお直良姓は婿養子として結婚後の姓であり、旧姓は村本。直良博人(理学博士、細胞核に含まれる極微量の核酸の光学的分析に関する研究に業績)は長男。
[編集] 生涯
大分県臼杵市出身。臼杵男子尋常高等小学校高等科中退後、様々な仕事をしながら早稲田中学講義録(通信講座)の購読などを通じ独学を続ける。この時期に、臼杵町立実科高等女学校に勤務していた直良音(なおら おと、後の妻)と出会うことになる。
その後、恩師を頼って上京後、苦学の末に岩倉鉄道学校(現・岩倉高等学校)卒業を経て農商務省窒素研究所に勤務。在勤中、喜田貞吉の影響で考古学に興味を持つようになり、いくつかの発掘調査に参加している。
大正12年(1923年)、体調を壊したため官を辞し臼杵へ帰省する途次、兵庫県立姫路高等女学校に転勤していた直良音と再会。大正14年(1925年)に信夫が婿入りする形で結婚し、信夫の静養を兼ねて明石に住むこととなる。この明石滞在中の昭和6年(1931年)4月18日、西八木海岸で旧石器時代のものと思われる化石人骨を発見した(後に長谷部言人が調査の結果原人と判断し明石原人と名付けた。なお化石現物は戦災により消失)。
昭和7年(1932年)には再び上京し、早稲田大学の徳永重康に師事し古生物学の研究を行う。その後、同大学助手を経て昭和20年(1945年)には同大学講師に就任。さらに昭和32年(1957年)、文学博士号を取得し、昭和35年(1960年)には同大学教授に就任(助教授は経由せず)し、後進の指導に当たった。
[編集] エピソード
直良の発見した明石人については、縄文時代以降の新人とする意見が大勢である。葛生人は、直良の没後、松浦秀治によるフッ素年代測定法を用いた分析により、室町時代頃の中世の人骨であるとの結論が出された。
また松本清張の短編小説「石の骨」の主人公「黒津」は、彼をモデルにしたものといわれている。