比叡 (戦艦)
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艦歴 | |
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起工 | 1911年11月4日 |
進水 | 1912年11日21日 |
竣工 | 1914年8月4日 |
喪失 | 1942年11月13日 第三次ソロモン海戦後に自沈 |
除籍 | 1942年12月20日 |
要目 | |
排水量 | 常備:27,500トン→ 基準:32,156トン、公試:36,600トン |
全長 | 214.6m → 222.0m |
全幅 | 28.04m → 31.0m |
主機 | パーソンズ式タービン2基4軸 64,000馬力 → 艦本式タービン4基4軸136,000馬力 |
速力 | 27.5ノット 25ノット(第一次改装) 30.5ノット(第二次改装) |
航続距離 | 8,000浬(14ノット時) → 9,800浬 (18ノット時) |
乗員 | 1,221名 → 1,222名(1,360名?) |
兵装 | 45口径35.6cm連装砲4基 50口径15.2cm単装砲16基 53cm水中魚雷発射管 → 45口径35.6cm連装砲4基 50口径15.2cm単装砲14基 12.7cm連装高角砲4基 25mm連装機銃10基 13mm4連装機銃2基 |
装甲 | 水線203mm 甲板19mm 主砲前盾250mm 副砲廊152mm (全て竣工時) |
航空兵力 | 水上機3機、カタパルト1基(1940年) |
比叡 (ひえい)は、日本海軍の戦艦(建造時は巡洋戦艦)で、金剛型戦艦の2番艦。
目次 |
[編集] 艦歴
1911年(明治44年)11月4日、横須賀海軍工廠で起工。1912年(大正元年)11日21日進水、この時大正天皇行幸による初の命名が行われる。1914年(大正3年)8月4日竣工。
第一次大戦による対ドイツ参戦により竣工後1ヶ月で早速東シナ海方面へ出勤している。
[編集] 練習戦艦に改装
1929年(昭和4年)10月15日より呉海軍工廠にて第一次改装に着手するが、ロンドン海軍軍縮条約成立により工事は一旦中止された。条約により戦艦1隻が練習戦艦へ改装されることになり、金剛型で工事の一番遅れていた比叡が選ばれた。工事は4番主砲と舷側装甲の撤去及び機関の変更が行われ1932年(昭和7年)12月31日に完了、翌1933年(昭和8年)1月1日に練習戦艦に類別変更された。この工事により要目は以下のようになった。
- 基準排水量:19,500トン
- 主缶:ロ号艦本式大型2基、同小型3基、同混焼缶6基
- 出力:16,000馬力
- 速力:18ノット
- 兵装
- 35.6cm連装砲3基
- 15.2cm単装砲16門
- 8cm単装高角砲4門(後日12.7cm連装高角砲4基に交換と推定される)
航空兵装、水雷兵装は全廃された。
[編集] 御召艦改装
練習戦艦となった際の兵装の撤去により艦内に余裕のあること、また艦隊所属でないためスケジュールの組みやすいことから天皇の御召艦としても利用された。この年(昭和8年)の5月に展望台を設けるなど御召艦用施設の設置工事を横須賀工廠で行っている。比叡はこの年と1936年(昭和11年)、また戦艦に復帰した第二次改装直後の1940年(昭和15年)の合計3回も観艦式での御召艦を務めている。また1935年(昭和10年)には宮崎、鹿児島御行幸の際の御召艦を、更に同年4月の満州皇帝の訪日の際にも御召艦となっている。これらにより戦前では長門型、高雄型と同じくらい親しまれた艦であったという。
[編集] 大改装
1936年(昭和11年)12月末の条約切れをまって翌1937年(昭和12年)4月1日より呉工廠で戦艦として復活する大改装が行われた。この改装は他の金剛型戦艦が一次、二次と2回で行われた改装を一度に行った形となった。改装点は以下の通り。
- 第4砲塔、舷側装甲の復活。
- 水平装甲の追加(推定。他艦は第一次改装で実施済み)
- 主砲装甲を強化、前盾250mm、天蓋150mmとなる。
- その他装甲を追加する。
- 主砲仰角を43度まで増大し、最大射程は35,450mとなった。
- 副砲仰角も30度まで増大し、最大射程は19,500mとなった。
- 副砲は2門減り、14門とする。
- 主缶を重油専焼缶8基とする。
- 重油搭載量を増大、航続距離を延長した。
- 主機を艦本式タービンと交換、出力は136,000馬力となった。
- 抵抗を減少させるため艦尾を7.6m延長し速力を29.7ノットとした。
- 排水量が増大したため、バルジを装着した。
- 12.7cm高角砲の指揮装置を九四式高射装置とする。(他艦は九一式高射装置)
- 25mm連装機銃10基を装備。
- 艦橋の近接防御用に13mm4連装機銃2基を装備(大和型と同じ装備)
- その他応急注排水装置、防毒装置などを装備した。
艦幅は他の同型艦より1m広い。他の艦は改装により吃水が深くなりすぎ、防御甲板(下甲板)が水線下となってしまった。このため吃水を浅くし防御甲板を水線上に上げるためにとられた処置である。
またこの工事では、後の大和型戦艦のテスト艦としての役割も担っており、艦橋構造物は他の艦と違い塔型構造を採用している。艦橋トップの方位盤も大和型で採用予定の九八式射撃盤と九四式方位照準装置を大和型と同様に縦に重ねて搭載している。これにより姉妹艦とは艦影がかなり異なる形となった。また主砲旋回用水圧ポンプに大和型への導入テストとしてブラウンホペリ社のターボポンプを導入したと言われる。
1939年(昭和14年)12月5日の公試では排水量36,332トン、出力137,970馬力において29.9ノットを記録している。
[編集] 開戦後
比叡は開戦時、霧島と共に第3戦隊第2小隊を編成、第一航空艦隊(いわゆる南雲機動部隊)の空母部隊護衛として真珠湾攻撃、セイロン沖海戦、ミッドウェー海戦に参加、その後も第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦と空母部隊の護衛を務めた。
1942年11月12日深夜、第三次ソロモン海戦において日米ともに戦闘準備をしないまま米巡洋艦部隊と遭遇し500~1500mという艦隊決戦としては異常な距離で砲戦を行った、海戦の初期は駆逐艦の主砲と機銃が比叡の艦橋に集中したため指揮に問題が生じ主砲をもてあますが戦艦の防御力を生かし敵艦隊を壊滅に至らしめた。しかし、装甲が非常に薄いバルジに重巡の20cm砲弾が命中し舵機室の損傷による浸水のため操舵不能となる。機関の出力調節でなんとか艦を安全水域まで退避させようと努力されたが、翌日B17の空襲を回避しようと高速運転した結果、修復中の破穴から浸水し被害が拡大し機関損傷(連絡の手違いに起因する虚報だったという説もある)に陥ったため、艦を救う事を断念した。連合艦隊司令部は本艦によって敵の空襲を吸収できると判断し自沈をしないよう命じたが、艦長らは乗員を退避させた上で、キングストン弁を開き、随伴駆逐艦から魚雷を打ち込み(打ち込んでいないと言う文献もある)、自沈した。なお艦長は乗員らが強行に退避させた。
ちなみに本艦の沈没は、太平洋戦争中の日本海軍における戦艦喪失の第一号である。
大分県竹田市にある広瀬神社には第二次改装のとき取り外された比叡のマストがある。
[編集] 主要目一覧
主要目 | 新造時計画 (1914年) |
練習戦艦時 (1931年) |
2次改装後 (1940年) |
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排水量 | 常備:27,500t | 基準:19,500t | 基準:32,165t 公試:37,000t |
全長 | 214.6m | ← | 222m |
全幅 | 28.04m | ← | 31.02m |
吃水 | 8.38m (常備) | 9.37m | |
主缶 | イ号艦本式混焼缶36基 | ロ号艦本式大型2基 同小型3基 同混焼缶6基 |
ロ号艦本式缶8基 |
主機 | パーソンズ式直結タービン2基4軸 | ← | 艦本式タービン4基4軸 |
軸馬力 | 64,000shp | 16,000shp | 13,6000shp |
速力 | 27.5ノット | 18ノット | 29.7ノット |
航続距離 | 8,000海里/14ノット | 9,800海里/18ノット | |
燃料 | 石炭:4,000t 重油:1,000t |
重油:6,240t | |
乗員 | 1,221名 | 1,222名 | |
主砲 | 毘式35.6cm連装砲4基 | 同3基 | 同4基 |
副砲 | 毘式15.2cm単装砲16門 | ← | 同14門 |
高角砲 | なし | 12.7cm連装4基 (後日装備) |
12.7cm連装4基 |
機銃 | なし | 40mm連装2基 7.7mm機銃3挺 |
25mm連装10基 13mm4連装2基 |
魚雷 | 53cm水中発射管8本 | なし | ← |
その他兵装 | 8cm砲4門 | 短8cm砲8門 | |
装甲 | 水線203mm 甲板19mm 主砲天蓋75mm 同前盾250mm 副砲廓152mm |
(水線装甲撤去) | 水線203mm 甲板19mm※※ 主砲天蓋150mm 同前盾280mm 副砲廓152mm |
航空機 | なし | ← | 3機 カタパルト1基 |
※ ←は左に同じ(変更無し)。空白は不明。
※※ 工事内容の詳細は明らかでないが、他艦と同様とすると追加の甲板装甲は以下の通り。
- 缶室64mm、機械室83-89mm、弾薬庫102-114mm、舵取室76mm
[編集] 公試成績
時期 | 排水量 | 出力 | 速力 | 実施日 | 実施場所 | 備考 |
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竣工時 | 27,390t | 76,127shp | 27.724kt | 1914年(大正3年)4月26日 | 館山沖標柱間 | |
2次改装後 | 36,332t | 137,970shp | 29.9kt | 1939年(昭和14年)12月 | 宿毛湾外標柱間 |
[編集] 歴代艦長
[編集] 艤装員長
- 高木七太郎 大佐(1912年12月20日就任)
[編集] 艦長
- 高木七太郎 大佐(1914年8月4日就任)
- 加藤寛治 大佐(1915年12月13日就任)
- 堀輝房 大佐(1916年12月1日就任)
- 桑島省三 大佐(1917年12月1日就任)
- 吉川安平 大佐(1918年12月1日就任)
- 白根熊三 大佐(1919年12月1日就任)
- 松村菊勇 大佐(1920年8月12日就任)
- 匡瑳胤次 大佐(1920年11月20日就任)
- 横地錠二 大佐(1922年1月10日就任)
- 中島晋 大佐(1923年12月1日就任)
- 村瀬貞次郎 大佐(1924年12月1日就任)
- 館明治郎 大佐(1925年6月16日就任)
- 岡本郁男 大佐(1926年8月20日就任)
- 大野寛 大佐(1927年12月1日就任)
- 嶋田繁太郎 大佐(1928年12月1日就任)
- 石井二郎 大佐(1929年11月30日就任)
- 和田専三 大佐(1930年12月1日就任)
- 舟下薫二 大佐(1932年5月10日就任)
- 前田政一 大佐(1932年12月1日就任)
- 佐田健一 大佐(1933年2月23日就任)
- 井上成美 大佐(1933年11月15日就任)
- 大川内伝七 大佐(1935年8月1日就任)
- 稲垣生起 大佐(1936年4月1日就任)
- 越智孝平 大佐(1936年12月1日就任)
- 青柳宗重 大佐(1937年12月1日就任)
- 平岡粂一 大佐(1938年11月15日就任)
- 阿部孝壮 大佐(1939年11月15日就任)
- 有馬馨 大佐(1940年10月15日就任)
- 西田正雄 大佐(1941年9月10日就任)
[編集] 郵便切手
前述のように、比叡は御召艦に改装されていたが、1935年4月2日に満州皇帝溥儀の来訪記念切手の4種類セットのうち、1銭5厘と6銭切手の2種類に航行する比叡の姿が描かれている。また背景には遼陽の白塔が描かれている。
日本の戦艦が切手に登場したのは、同じく御召艦であった香取型戦艦(香取と鹿島)を描いた1921年発行の皇太子(昭和天皇)帰朝記念切手以来2度目のことであった。
[編集] 参考文献
- 雑誌丸編集部『丸スペシャルNo15 戦艦比叡 日本海軍艦艇シリーズ』潮書房、1977年
[編集] 同型艦
[編集] 関連項目
- 金剛型戦艦
- 大日本帝国海軍艦艇一覧
- 紺碧の艦隊
- 比叡 [I] (コルベット)
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富士型 | 富士 | 八島 | |
敷島型 | 敷島 | 朝日 | 初瀬 | 三笠 | |
香取型 | 香取 | 鹿島 | |
薩摩型 | 薩摩 | 安芸 | |
筑波型 | 筑波 | 生駒 | |
鞍馬型 | 鞍馬 | 伊吹 | |
河内型 | 河内 | 摂津 | |
金剛型 | 金剛 | 比叡 | 榛名 | 霧島 | |
扶桑型 | 扶桑 | 山城 | |
伊勢型 | 伊勢 | 日向 | |
長門型 | 長門 | 陸奥 | |
大和型 | 大和 | 武蔵 | |
戦利艦 | 鎮遠 | 石見 | 肥前 | 丹後 | 壱岐 | 周防 | 相模 | トゥルグット・レイス | ナッソー | オルデンブルク |