実如
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実如(じつにょ、長禄2年8月10日(1458年9月17日) - 大永5年2月2日(1525年2月23日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧。本願寺第八世蓮如の第8子。諱は光兼。本願寺第九世。
1467年(文正2年)延暦寺から「仏敵」とされ京都を追われた父・蓮如がやむなく延暦寺に屈した時に蓮如の隠居と長男順如の廃嫡、そして当時光養丸と呼ばれていた実如への家督継承が強要されるが、本願寺の勢力回復とともに有耶無耶となり、元のように順如が法嗣とされた。1483年(文明15年)長兄である順如の死没により改めて法嗣となり(そのため、法主が後継者指名に用いた譲状が実如には2枚存在する)、1489年(延徳8年)父蓮如のあとを受けて本願寺第九世となった。1499年(明応8年)に蓮如が亡くなった後も、父の代に急激に拡大した教団の規模を維持する必要があった。
特に実如が重視したのは管領細川政元との関係である。かつて加賀一向一揆が守護富樫政親を攻め滅ぼした際に将軍足利義尚が本願寺に討伐令を下そうとしていた折に政元がこれに強く反対して討伐令を撤回させたという経緯があったために、実如は大きな恩義を感じていたのである。このため、1495年(明応4年)には加賀一揆の指導者で反政元派の河井宣久の粛清を容認している。だが、1506年(永正3年)、細川政元の要請を受けて畠山義英討伐への協力に応じると、畠山氏との関係が深かった摂津・河内の門徒が猛反発し、実如の異母弟で畠山氏の血を引く実賢(後に近江国称徳寺)を石山御坊にて擁立して法主交替を求める。実如はこれを力づくで抑え込む(「大坂一乱」)が、続いて細川澄之が政元を暗殺して細川澄元と争うと、その争いに巻き込まれた実如は澄元によって一時山科本願寺を追放されてしまう。
この事態に苦慮した実如は、弟蓮淳・息子円如とともに北陸門徒に対し一揆の禁止をはじめとする3か条の戒めを発布したり、本願寺の一族を一門衆(嫡男)と一家衆(次男以下)に分ける一門一家制を設けたり、蓮如の文書の中から80通を選んで5帖に編集し御文とよんで宗門信条の基本とするなどの策を講じた。
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