夏侯覇
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夏侯覇(かこうは、生没年不詳)は、三国時代の魏、後に蜀漢の武将。字は仲権。魏将・夏侯淵の次男。娘に晋の都督荊州諸軍事羊祜の夫人がいる。また、史書によると子が数人いた。
[編集] その生涯
幼少の頃の事は定かではないが、魏の名門夏侯一族でも弓馬に傑出し、威・和・恵・栄ら弟たちとともにその秀才ぶりが謳われていたという。建安24年(219年)に、定軍山の戦いで父の夏侯淵と弟の夏侯栄を劉備に斬られた事から、若き夏侯覇は常に亡父の復讐の機会を窺っていた事が伝えられる。後の正始5年(244年)に曹爽が蜀征伐を行なった際には先鋒を務め、この戦いの要地となった興勢を包囲している。
後に右将軍、転じて征蜀護軍に昇進した。だが、嘉平元年(249年)に司馬懿が曹爽を誅殺し、曹爽の従弟の征西将軍の夏侯玄も朝廷に召喚される(後に殺害された)という事件が起こる。この夏侯玄は、夏侯覇の従子(一族の中で一つ下の世代)に当たり、さらに、仲の悪い郭淮が、夏侯玄に代わって征西将軍の後任となった。これらの事で自らの身に危険が及ぶのを恐れた夏侯覇は、蜀漢に逃亡した。蜀漢の暦で言う延煕12年のことである。
蜀漢の皇帝である劉禅の皇后は、創業の功臣である張飛の娘であり、その母親(張飛の妻)が夏侯覇の族妹(遠縁の同世代の親戚)であったことから手厚くもてなされ、後に車騎将軍に任じられている。それ以降の事績については、延煕18年(255年)に衛将軍の姜維と共に 狄道に出て、魏の雍州刺史の王経を大破した戦果が伝えられるのみである。蜀漢が滅亡した景耀6年(263年)の時点では既に死亡しており、諡号が贈られたという。正史の記述によると、景耀2年(259年)に廖化と張翼が左右の車騎将軍に任じられていることから、おそらくそれまでに死去したと思われる。
なお、夏侯覇の子供達は、夏侯覇が蜀に逃げた後、元勲夏侯淵の子孫と言うことで恩赦を受け、楽浪郡に流されたという。
[編集] 演義での夏侯覇
『演義』では、夏侯淵の長子であり、張飛と長坂で戦っている。蜀に亡命してからは姜維の参謀として北伐に幾度となく参加し、景耀5年(262年)冬10月、第八回目の戦いで姜維を庇って戦死したと書かれている。