郭淮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
郭淮(かくわい、Guo Huai ?- 255年)は、中国、後漢末から三国時代の魏の武将。字は伯済。郭全の孫、郭縕の子、郭配・郭鎮の兄、郭統の父、郭正の祖父。
『三国志演義』では253年に姜維の放った矢によって落命しているが、これは『演義』の創作である。
[編集] 事績
并州太原郡陽曲県の人。建安年間(196年 - 220年)に孝廉で推挙され、平原の丞となった。曹丕は五官将となると郭淮を召し出して配下に加えたが、間もなく曹操について漢中征伐に随行した。漢中制圧後は夏侯淵の司馬としてその地に残ったが、劉備軍の侵攻の際は病気で参戦していなかった。夏侯淵が討たれると、郭淮は混乱する兵士を取りまとめ、張郃に司令官を代行してもらうことで当地を守った。曹操は漢中に到着すると大いに感心し、張郃を漢中駐留軍の司令官に、郭淮をその司馬に任じた。
曹丕が帝位についたとき、郭淮は関内候の爵位を与えられた。このとき、都へ向かう途上で病気にかかり、彼は都までの道のりと日数を計算した上で療養に努めた。ところが、彼が参内した頃には既に祝宴が行われていたことで、曹丕は彼を咎めた。古の例を取って非難する曹丕に対し、郭淮はそれを逆手にとって弁明したことで曹丕に気に入られ、仮の雍州刺史に任命された。その5年後、郭淮は正式な雍州刺史となった。何度も羌族らの反乱を鎮圧した。
228年、侵攻してきた蜀漢軍の諸葛亮の配下の高翔を破った。231年、諸葛亮が攻めてきた時は、羌族を手懐け兵糧を魏軍に提供させた。234年、攻めてきた諸葛亮の攻撃計画を見破り、迎撃して、防衛に貢献した。
諸葛亮死後、今度は姜維の北伐が始まると、それを防いだ。244年には夏侯玄の蜀攻めに先鋒として従軍したが、形勢不利を覚った彼はいち早く味方の軍を脱出させ、大敗させずに済んだ。249年には征西将軍・都督雍涼諸軍事となり、対蜀軍戦線の総司令官にまで登りつめた。さらに翌年には、長年の功績を賞され、車騎将軍に昇進し、続けて都督として雍州・涼州の軍事総司令官の任を兼務した。
251年、王凌が政権奪取を目論んでいたかどで司馬懿に討伐され、処刑されたのだが、郭淮の妻は王凌の妹であったため、妻は罪人として中央に召し出されてしまった。郭淮の配下や周辺の部族の長はこぞって郭淮の元へ押しかけ、助命を嘆願したが、彼は聞き入れなかった。妻が雍州を離れる際になり、郭淮の子供たちが額から血を流すほどに叩頭して請願したため、郭淮はそれを見過ごすに忍びず、妻を取り返した。そしてこの件を司馬懿に言上し「子供らが母親を哀れみ、もし母親を失えば彼らも亡くなるでしょう。そして子供らが亡くなれば、また私もないことでもあります。故に妻を取りかえしてしまいました。これが法律上成立しないのであれば、私も然るべき罪に服す所存です」と述べた。司馬懿はその言を受け、彼らの罪を不問とした。