国鉄千葉動力車労働組合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
国鉄千葉動力車労働組合(こくてつちばどうりょくしゃろうどうくみあい)は、日本の労働組合の一つ。
旧・日本国有鉄道(国鉄)千葉鉄道管理局管内、現・東日本旅客鉄道(JR東日本)千葉支社などの労働者で組織する。通称動労千葉(どうろうちば)。マスメディアでは千葉動労と表記される。
目次 |
[編集] 概要
- 本部:千葉県千葉市中央区要町二丁目8番 DC会館内
- 執行部:委員長田中康宏、書記長長田敏之
- 組織:13支部。内訳はJR東日本に9、日本貨物鉄道(JR貨物)に2、木原線を第三セクター鉄道に転換したいすみ鉄道に1、中央支部1
- 機関誌:年刊『動労千葉』および『日刊動労千葉』
- JR東日本の2007年3月期有価証券報告書によれば、「国鉄動力車労働組合総連合(動労総連合)」の名称で掲載されており、組合員数307名。また、JR西日本の2007年3月期有価証券報告書によれば、「国鉄西日本動力車労働組合(動労西日本)」の名称で掲載されており、組合員数3名。JR東日本・JR西日本両社との間では労働協約が締結されておらず、当労組の戦闘的な体質が伺える(JR貨物に在籍する当労組の組合員数は同社が有価証券報告書を提出していないため不明)。
[編集] 沿革
成田空港建設を巡る成田紛争に対する見解の違いから、国鉄動力車労働組合(動労)千葉地方本部が1979年(昭和54年)3月30日に組織的に分裂して発足した。現在、OBも含め600人余りの組合員を有すると主張し、同県船橋市・勝浦市などで地方議員を輩出した。しばしば中核派の主体団体とみなされる(同党派の出版物で動労千葉を好意的に取り上げることが多い)。そのため、中核派と対立する革マル派の影響力が強いとされる全日本鉄道労働組合総連合会(JR総連)と対立するなど、戦闘的な組合である。
国鉄分割民営化に対しては、国鉄労働組合(国労)同様否定的な見解を貫いた。そのため、分割民営化時に国労、全国鉄動力車労働組合(全動労)などとともに排除の対象とされた。分割民営化を否定するため、「国鉄」の文字を未だに冠している。現在では不採用組合員16名の復帰をめざし、動労千葉争議団を結成し、政治セクトの違いを超えて国労の争議団と共闘している。ただし、かつての四党合意は間違いだったとしており、この件については国労よりもさらに強硬な姿勢で臨んでいる(最近のJR東日本に対する国労の姿勢を「弱腰」と批判している)。
1985年(昭和60年)11月29日に中核派によって引き起こされた国電同時多発ゲリラ事件(この事件で首都圏の国電路線・マルスが麻痺しただけでなく、浅草橋駅が焼き討ちにあい、首都圏の通勤者の怒りを買うことになった)は、この動労千葉のストライキの日と同日であり、動労千葉は「自分達を支援するもの」という主旨の発表を行っている。動労本部の松崎明委員長(当時)は「ゲリラを誘発したストライキだ」と非難声明を出し、日本労働組合総評議会(総評)に対して、動労千葉を除名するよう求めた。このストライキと翌1986年(昭和61年)2月15日に打たれた第2波ストライキにより、公共企業体等労働関係法によって28名の組合員が解雇された。
しかし、この事件とストライキが動労千葉を大きく飛躍させる一大闘争だったことはいうまでもない。翌1986年には、『平凡パンチ』(マガジンハウス、廃刊)の「内田裕也のロックン・トーク」という連載記事で、内田裕也と中野洋委員長(当時)の対談が掲載されたり、『週刊プレイボーイ』(集英社)では「千葉動労なぜ闘う!?」という記事で、当時の青年部長が取材を受けるなど、メディアでの取材がよく見られた。
1986年(昭和61年)11月30日、直前に結成されたばかりの動労水戸・動労連帯高崎とともに動労総連合を組織し、のちに動労西日本を加え、現在に至る。本部は動労千葉と同じ。
[編集] 現状とJRの対応
JR東日本千葉支社管轄の各線では、よくストライキによる間引き運転や運休(久留里線など)が行われるが、これは動労千葉の争議行為によるものが多い。毎年3月中旬には必ず行われるため、地元ではもはや「春の風物詩」となっている。一部では「花見スト」などと揶揄されており、千葉以遠のいわゆる房総各線の利用者からの反発もある。2006年3月にはこれによる運休や遅延に加えて強風による運休や遅延が重なった。
房総各線の普通列車に現在まで新系列車両を投入しないのは、新系列車両はメンテナンスフリーであり、仕事が減ってしまうという懸念があることが大きい。また、動労千葉ではJR東日本の進める検修部門の外注化に断固拒否の姿勢を堅持している。習志野電車区が閉鎖され配置車両は三鷹電車区(現・三鷹車両センター)へ転出、幕張車両センター配置のE217系が全車両とも鎌倉車両センターへ転出したのは、保守部門の効率化という一面もさることながら、動労千葉の「外注化拒否」に対するJR東日本の対抗姿勢の現れとも言われている。動労千葉は、E231系・E233系のような新系列車両が軽量車体であることやボルスタレス台車を採用していること(動労千葉はボルスタレス台車がレールの極端な磨耗や車両脱線事故の原因になり結果としてJR福知山線脱線事故を招いたとして採用に反対している)、「成田エクスプレス」や総武快速線の高速運転に対し危険性を主張している。
なお、1985年と1986年に行われたストライキによる解雇者については、1996年3月27日に千葉地方裁判所で日本国有鉄道清算事業団との間で和解が成立した。被解雇者は全員和解金(退職金)を受けて、処分日に依願退職したと同等の扱いとなり、職場復帰はなかったものの、一定の勝利解決を見ている。
2006年9月には、館山運転区廃止に関する廃止反対集会を開催し、来賓に市長や観光協会長を招き、ともに運転区廃止反対の声を上げていたが、2007年3月には廃止反対のストライキも実施されたが、結局館山運転区は廃止され木更津運輸区に統合された。しかし、運転区廃止後の組合員の異動先についてはほぼ希望通りとなったため、彼らはこの「闘争」に「勝利」したとしている。木更津運輸区設置のそもそもの目的が「館山運転区を解体し動労千葉組合員を強制配転し、組合を弱体化させる」ことを狙ったものとみなしているからである。
[編集] 参考文献
- 中野洋 『動労千葉俺たちは鉄路に生きる―国鉄分割・民営化に異議あり!!―』(社会評論社、1986年)