国鉄動力車労働組合
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国鉄動力車労働組合(こくてつどうりょくしゃろうどうくみあい)は、旧国鉄の機関士を中心とした労働組合の連合体。略称は動労(どうろう)。
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[編集] 歴史
[編集] 結成から「鬼の動労」へ
1950年に国鉄労働組合(国労)の機関士待遇をめぐる運動方針から国鉄機関車労働組合(機労)を結成、1957年に国鉄動力車労働組合と改称した。この背景には「一般の駅員より機関士や運転士の方が格上」という現場での運転士達の自負心があったとされる。1960年代~1970年代には、国労以上に先鋭的な労働運動を展開、「鬼の動労」と呼ばれる存在となった。その後もマル生運動反対闘争・スト権ストなどを国労と共に主導した。
[編集] 分裂した新労組
一方、動労は革共同の色合いが濃かったため、政治セクト・政党支持をめぐって内部対立が起こり、1974年には日本共産党系の全国鉄動力車労働組合(全動労)が、1979年には成田闘争をめぐる対立から中核派系の国鉄千葉動力車労働組合(動労千葉)が、1984年に国鉄分割民営化を巡って、全東北鉄道産業労働組合(現在の鉄道産業労働組合[鉄産労])がそれぞれ分裂している。
[編集] 国鉄分割民営化
鬼の動労と呼ばれた動労も、1975年のスト権ストの敗北によってストライキ戦術がもはや効果的でないと判断、国労と内々に協議しストライキ戦術の放棄を決める。「まず動労が決めないと国労は意見がまとまらない」との国労側の声で先にストライキ放棄を宣言したが、国労側は意見が分裂しストライキ放棄を決めることができなかった。国労に梯子を外された格好の動労は激怒し、両者の路線対立は決定的になる。
貨物列車の衰退がトラックへの移行で著しくなる中、職場を守るため1978年には貨物列車に関するストを行わない旨を決定する(ゴーサントオ改正にあわせたもので、「貨物安定宣言」としてその旨を宣言した。また、ストライキによって貨物輸送が減ったという批判に対し、反論するためという理由もあった)。1982年から1984年頃には、外部からの批判によって国鉄の職場荒廃(カラ出張、ヤミ休暇など)への改善運動が実施されたが、動労はこれにも国労と比較すれば協力する姿勢をとっている。
国鉄分割民営化にあたっては国労が徹底抗戦の構えを見せる一方、動労は松崎明委員長の下、組合員の雇用を絶対に守るという建前で組織防衛を図る方針から労使協調路線に転換し、1986年1月、鉄労、全施労とともに国鉄当局と「労使共同宣言」を締結、国労と共に分割民営化反対を唱えていた総評を脱退している。
その結果、ほとんど不採用者・脱落者を出すことなく新会社に採用されたが、組合員個人の意思に反した広域配転(北海道・九州→首都圏へ)や50歳以上の組合員は採用は少なく一律に勧奨退職の対象となるなど、結果的に国鉄を追われた形で辞めた組合員は多い。また一部に不採用となった動労役員がいたが、民営化後に子会社役員に招聘されるなど、見かけだけの「不採用」は、予定調和だったとされている。
その後鉄労などと国鉄改革労組協議会を組織し、それを母体に民営化後のJRでは統合して全日本鉄道労働組合総連合会(鉄道労連、のちJR総連)を結成、民営化された新会社での労働運動での主導権を握った。
[編集] 関連項目
- 遵法闘争
- アジ電車
- 国鉄千葉動力車労働組合(動労千葉)
- 「雪と闘う機関車」・・・機労旭川地本教宣部製作の映画、DVD「鉄道映画名作集シリーズ1」に収録[1]。
[編集] 組織内議員
- 目黒今朝次郎(元参議院)
[編集] 参考文献
- 動労30年史編纂委員会編『動労三十年史』1-3(国鉄動力車労働組合、1982-83)