呂明賜
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呂明賜 ルー・ミンスー |
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出生 | 1964年10月30日 台湾 |
職業 | 元野球選手(外野手) |
各種表記 | |
簡体字 | 呂明赐 |
繁体字 | 呂明賜 |
ピン音 | Lǚ Míngcì |
和名表記 | ろ めいし |
発音転記 | |
英語名 | Ro Ming Soo |
呂 明賜(ルー・ミンスー、ろ めいし、Ro Ming Soo , 1964年10月30日 - )は台湾出身の野球選手。日本および台湾のプロ野球で選手として活躍した。ポジションは外野手、捕手。
目次 |
[編集] 来歴・人物
台湾の中国文化大学から1988年にドラフト外で読売ジャイアンツに入団。当時、巨人にはウォーレン・クロマティ、ビル・ガリクソンといった元メジャーリーグ選手の外国人選手が在籍していたため、第3の外国人の扱い(当時、出場選手登録できる外国人は1球団につき2人まで)だった。同年6月にクロマティが故障で初めて一軍に昇格すると、6月14日のヤクルト戦で初打席初本塁打(ギブソン投手より)を記録。以降も10試合で本塁打7本と大暴れし、オールスターにも監督推薦で選ばれた。後半戦は疲労や弱点(内角の速球)を読まれ始めたことが原因で成績が落ちたが、最終的には本塁打を16本放ち、前傾姿勢の打撃フォームから繰り出される豪快な一打から、「アジアの大砲」「怪物」(当時の日刊スポーツコラムより)と評された。
しかし翌年の1989年に藤田元司が監督に就任すると、起用方針が若手選手主体に転換されたため二軍暮らしが続き、出場機会に恵まれないまま1991年のシーズン終了後に退団。
1992年、中華職棒味全ドラゴンズに入団し、持ち前の長打力を遺憾なく発揮し主力打者として活躍した。1997年に台湾プロ野球が内部分裂し、台湾大聯盟に引き抜かれ、この際に中華職棒聯盟から永久追放処分を受ける。2000年まで高屏雷公でプレーした後に引退、以後指導者の道を歩み始める。2003年に台湾大聯盟が中華職棒聯盟と合併し、一度は球界を離れざるを得なくなったが、1000万元を聯盟に寄付し球界復帰が認められた。2006年からは、La Newベアーズの打撃コーチに就いている。またWBCや北京オリンピックの台湾代表チーム(チャイニーズタイペイ)の打撃コーチを務める。
[編集] 略歴
- 身長/体重:178cm/86kg
- 投打:右投右打
- 出身地:台灣・高雄市
- 球歴:中国文化大学 - 読売ジャイアンツ(1988年 - 1991年) - 味全ドラゴンズ(1992年 - 1996年) - 高屏雷公(1997年 - 2000年) - 高屏雷公コーチ(2001年 - 2002年) - 誠泰コブラズ打撃コーチ(2004年 - 2005年) - La Newベアーズ打撃コーチ(2006年 - )
[編集] エピソード
- 一軍デビュー当時はファンの間で「今日、呂はホームラン打ったか?」でなく「今日、呂は何本ホームラン打ったか?」とまで言われる程にホームランを量産していた。
- 急に本塁打が出なくなった時は「かなり急激に体重を減らしたからだ」と言われた。
- 活躍した1988年、「ジャンプ放送局」をはじめとする雑誌の読者ページは毎号のように呂のネタが乱れ飛んでいた。そのネタは主に、豪快な打撃フォーム、やたらとデカイ顔、名字が平仮名一文字に関するものが殆どだった。
- 呂が1年目につけていた背番号97は、入団時の体重が97kgだったことに由来する。2005年から2006年にかけて,同じ台湾出身の姜建銘が背負っていた(2007年からは17)。呂自身は,巨人在籍の2年目(1989年)以降,背番号を12に変更している。
- 巨人在籍時には、チームメイトの桑田真澄に顔が似ていると言われていた。
- 直線的な弾道でスタンドに突き刺さる驚異的な本塁打について、王貞治監督は「あんなホームラン俺でも2、3本しか打ったことがない」と言っている。
[編集] 年度別打撃成績
年度 | チーム | 背 番 号 |
試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗 塁 死 |
犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併 殺 打 |
打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1988年 | 巨人 | 97 | 79 | 274 | 38 | 70 | 12 | 0 | 16 | 130 | 40 | 4 | 5 | 3 | 2 | 32 | 1 | 43 | 10 | .255 |
1989年 | 12 | 18 | 39 | 3 | 11 | 0 | 0 | 2 | 17 | 6 | 1 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 7 | 2 | .282 | |
1990年 | 7 | 13 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | .308 | ||
1991年 | 9 | 16 | 0 | 4 | 1 | 1 | 0 | 7 | 3 | 1 | 0 | 0 | 1 | 2 | 1 | 5 | 0 | .250 | ||
通算成績 | 113 | 342 | 41 | 89 | 13 | 1 | 18 | 158 | 49 | 6 | 5 | 4 | 3 | 36 | 2 | 57 | 12 | .260 |
[編集] 日本での背番号
- 97(1988年)
- 12(1989年~1991年)
[編集] 関連項目
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