伊東祐勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊東 祐勝(いとう すけかつ、元亀元年(1570年) - 文禄2年6月14日(1593年7月12日))は日向国の戦国武将。伊東義祐の孫に当たり、父は伊東義益、母は一条房基の娘・阿喜多。伊東義賢は兄にあたる。字「小右衛門尉」。
父・義益が1569年に病死したため、祖父・伊東義祐の手によって養育された。天正5年(1577年)、伊東氏は没落し日向から逃亡、母の縁者である大友氏に助けられ、その保護を受けたという。この時に大友宗麟の影響を受けてキリシタンとなり「ジェロニモ」の洗礼名をもらう。また非常に有能な少年であり、特に選ばれて安土のセミナリオに留学していた。後に天正遣欧少年使節の代表の候補者となるが、安土留学中で出発に間に合わないため外された。天正15年(1587年)、九州征伐の後、叔父・伊東祐兵が飫肥城に復帰すると帰参した。
文禄の役で伊東勢の一人として朝鮮に出兵するも病気となり、帰国。ところが船が暴風雨に襲われ、石見国まで流されてしまい、その地で病状が悪化し死去。享年24。没月日には「7月14日」説もある。史料上では病死とされるが、兄・義賢と前後して没していることから、伊東祐兵との家督争いを防ぐために家臣により暗殺されたという説もある。