リッカルド・ムーティ
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リッカルド・ムーティ | |
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基本情報 | |
出生日 | 1941年7月28日(66歳) |
学歴 | ミラノ音楽院 |
出身地 | イタリア ナポリ |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 指揮者 |
担当楽器 | 指揮 |
活動期間 | 1965年頃 - |
レーベル | EMI、ソニー・クラシカル |
クラシック音楽 |
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作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ |
ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 |
ルネサンス - バロック |
古典派 - ロマン派 |
近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 |
木管楽器 - 金管楽器 |
打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 |
交響曲 - ピアノ協奏曲 |
ピアノソナタ |
ヴァイオリン協奏曲 |
ヴァイオリンソナタ |
弦楽四重奏曲 |
指揮者 - 演奏家 |
オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 |
宗教音楽 |
イベント |
音楽祭 |
メタ |
ポータル - プロジェクト |
カテゴリ |
リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti, 1941年7月28日 ナポリ - )はイタリア人のクラシック音楽の指揮者である。
目次 |
[編集] 来歴・人物
1967年に若手指揮者のためのグィード・カンテッリ賞を受賞。1972年からフィルハーモニア管弦楽団を定期的に指揮し、オットー・クレンペラー以来の首席指揮者に任命される。1980年から1992年までフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督に就任し、しばしば同楽団を率いて世界的な演奏旅行を行なった。フィラデルフィア管弦楽団と制作したレスピーギ作品やロシア作品(ストラヴィンスキー、チャイコフスキー、スクリャービン)、ブラームスの交響曲の録音は、現在でも評価が高い。
1986年から2005年までミラノ・スカラ座の芸術監督を務める。1987年にミラノ・スカラ座管弦楽団の首席指揮者に任命され、1988年には同楽団とともにヴィオッティ・ドーロ賞(Viotti d'Oro)を獲得。同楽団を率いてイタリア国内から欧州各地まで演奏活動を続けた。
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団にも定期的に客演している。1996年にはウィーン音楽週間の最終公演でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したほか、同楽団の極東ツアー(日本、韓国、香港)やドイツツアーのほか、1993年、1997年、2000年、2004年のニューイヤーコンサートでも指揮をとった。
1971年以来ザルツブルク音楽祭にも定期的に参加し、オペラや演奏会を指揮しているが、とりわけ同地ではモーツァルトの歌劇の指揮で有名である。スカラ座のほかにも、フィラデルフィアやロンドン、ミュンヘン、ウィーン、ラヴェンナ音楽祭などでオペラ公演を指揮してきた。
スカラ座では、比較的無名の古典派のオペラ、例えばケルビーニの歌劇《ロドイスカ》や、スポンティーニの歌劇《ヴェスタの巫女 La Vestale 》を上演、その一方でスカラ座管弦楽団を指揮して、こんにち無名の20世紀イタリア人の新古典主義者(ブゾーニ、カゼッラ、ロータ)の作品を録音した。
ヴェルディやプッチーニの有名作品についても、伝統的に行われてきた改変(アリアのクライマックスでの高音の挿入、冗長と考えられる部分のカット等)に対して批判的であり、「演奏は常に作曲者によって書かれたまま(come scritto)でなされなければならない」との強い信念をもち、自筆譜の綿密な研究を通じてそれを実行してきた。
性格はきわめて内向的で真面目である。練習風景や指揮姿を見るとカリスマ指揮者としてのオーラに満ち溢れ「帝王」のように見えるが、実は口下手でシャイという話が多く聞かれる。責任感の強さは随一である。
交友はさほど広くないが大物が並ぶ。小澤、バレンボイム、メータ、ポリーニ、フリットリ、ブルゾン等。またカルロス・クライバーの数少ない親友でもある。
[編集] スカラ座辞任~現代の帝王へ
2005年3月16日に、スカラ座の管弦楽団員と職員の投票により、圧倒的多数で不信任を表明される。これは、スカラ座総支配人カルロ・フォンターナとムーティとのいさかいがきっかけであり、これによって2月にフォンターナが免職される結果となっていた。ムーティは投票に先立ち演奏会をキャンセルするが、フォンターナの支持者との絶え間ない亀裂のためにその他の公演も立ち行かない状態だった。同年4月2日にスカラ座を辞任した際、ムーティは職員からの「敵意」を辞任の理由として挙げていた。ムーティがベルルスコーニ首相と親しい間柄であるのに対し、フォンターナは左派に属することから、この抗争自体芸術面でのそれというより高度に政治的なものだったとの見方もある。
スカラ座の辞任後は、親密な同僚指揮者である小澤征爾やダニエル・バレンボイム、ロリン・マゼールなどから引く手数多の招待を受けて世界中を往復している。もっとも親密なウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とは毎年指揮台に立ち、2005-2006シーズンは30回以上も指揮台に立っている。同楽団から名誉会員の称号、ゴールドリングが贈られ、同楽団の中枢メンバーで構成されるウィーン宮廷楽団の初代名誉音楽監督に任命されている。Wph専用機(エアバス機)に搭乗が許される唯一の指揮者であり、大巨匠であるカール・ベームやヘルベルト・フォン・カラヤンなみの待遇を受けている。現在は自らが創設したケルビーニ管弦楽団の音楽監督を務めている。2008年からはニューヨーク・フィルハーモニックの首席客演指揮者に就任するが、2007年にシカゴ交響楽団を率いてヨーロッパツアーを行うなど、後継の音楽監督就任の噂が絶えない。過去にバイエルン放送交響楽団やニューヨーク・フィルの音楽監督依頼を固辞して周囲を騒がせた。現在でもウィーン国立歌劇場、バイエルン放送響、ニューヨーク・フィル、フランス国立管弦楽団、フィラデルフィア(再登板)から音楽監督の依頼が非公式(一部公式)に出ている。最近ではロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の客演依頼を断って、臨時オーケストラや無名の楽団を振る。最近の来日は東京オペラの森音楽祭やPMFという若手指導の仕事ばかりである(2008年にウィーン国立歌劇場と来日してモーツァルトを指揮する予定。またベルリン・フィルは契約に至った)。
[編集] 今後のポスト
スカラ座辞任後は特定の監督ポストには就任せず、客演指揮者として活躍している。首席指揮者を置かないウィーン・フィル、若手指導のためのケルビーニ管以外は年に1ヵ月程度の付き合いに留まっている。現在の客演先はフィルハーモニア管弦楽団、バイエルン放送交響楽団、フィラデルフィア管弦楽団、フランス国立管、ニューヨーク・フィル、フィレンツェ五月音楽祭歌劇場だけだが、新規としてメトロポリタン歌劇場、ローマ歌劇場、シカゴ交響楽団(2回目)などの客演が決まっており、北京音楽祭や東京オペラの森音楽祭、PMF、モスクワ音楽祭、ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭などイベントへの参加も多い。またルツェルン音楽祭への出演や協力も表明し、周囲を驚かせた。2009年5月には固辞していたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に復帰することになっている。 また後任の音楽監督としてニューヨーク・フィル(ギルバートで決定)やフィラデルフィア管弦楽団(ここ数年距離を取る)、シカゴ交響楽団、ベルリン・フィルなどの名前が挙がっていたが、5月5日、シカゴ交響楽団の次期音楽監督に就任することが双方から発表された。任期は2010年から5年間となるが、就任前に事実上の活動(スポンサー対応やオーディションなど)を開始することがアナウンスされている。またこれに伴いニューヨーク・フィルからは非公式ながら絶縁状が届いた。
[編集] クラウディオ・アバドとの仲
クラウディオ・アバドとの犬猿の仲は有名であり、お互い名前で呼ばないほど疎遠である。殊にムーティはアバドのことを「(スカラ座の)前任者」と呼んでいた時期もあった。盟友のピアニスト・ポリーニ、ダニエル・バレンボイムや弟子のダニエル・ハーディングやがよく二人の間に立って和解を目指した。イタリア時代からお互い良きライバルであった反面、ポスト・カラヤンとして争い完全に決裂してしまう。アバドはベルリン・フィルを襲い自らの目指すカラーに染め上げた反面、ムーティはウィーン・フィルの事実上の常任指揮者待遇になってしまう。世界の2頭を牽引したこの二人が、現在は固定ポストを持たず若手指導に尽力するようになる。その思惑が一致し、アバドよりムーティへ協力要請の打診へと繋がり、ルツェルン音楽祭への出演・協力に至る。また雑誌を通じてお互い尊敬しあっていることを打ち出すなど、雪解けー向けて一気に加速が進む。この背景にはウィーンへの復帰を望むアバドの思惑とする説もあるが、定かではない。 アバドがパイオニアとして乗り込んだ地域(オーケストラ)の後任としてムーティが乗り込み、成功を収める例が多く、その他でも何かと因縁で切っても切れない様相を呈す(スカラ座・ウィーン・ベルリン・ロンドン・シカゴ・ニューヨークなど)。
[編集] 音楽の特徴
イタリアで下積みをしていた時代は情熱が支配するような熱い音楽を身上としていた。かなり濃いカンタービレやアタックの強さはトスカニーニの影響ともいえるだろう。後にフィルハーモニア管弦楽団という名器を手に入れ、丸みは帯びてきたものの逆にマス間の緊張感をギリギリに引き出す熱い音楽でロンドンの聴衆を虜にしていた。オーマンディの推薦によってフィラデルフィア管弦楽団に就任すると音楽が一変、ドラマティックなスタイル0に変わる。特に交響曲以外の管弦楽曲ではオペラの劇性をそのまま持ち込んだ調理法が目立ち、揺れるテンポに激しいアタック、フィラデルフィア管の能力をフルに活用し「ドライヴ」という言葉がまさに当てはまるほどオーケストラを動かした。兼任していくミラノ・スカラ座では厳しい緊張感に歌心を加え、ますます音楽の幅が大きくなる。フィラデルフィア辞任前後は独墺系の曲を多く取り上げ、テンポは動かさずに響きを溶け合わせるというかつてない地平を開いた。1990年代に入るとウィーン・フィルとの共演回数が激増し、個々の動的な動きと統率力のやりとりが風格を漂わせる様になる。特にシュトラウス・ファミリーの曲ではムーティの多用な音楽性を味わうことが出来る(1993年と2004年ではとても同じ指揮者とは思えない)。またウィーン・フィルが大切にしていたレパートリー(モーツァルトやシューベルト)を取り上げる機会が増え、オーケストラの美しさを最大限に引き出す手腕は世界中から支持を受けている。特にモーツァルトの美しさは、かのブルーノ・ワルターを超えるとまで言う人もいる。一方スカラ・フィルとは晩年に録音したベートーヴェンが話題騒然となる。アンサンブルの精度や洗練された奏法を徹底的に排し、オーケストラの伝統だけで指揮してしまったという問題作である(あまりに雑すぎるという批判もあれば、よくここまで歌いきったと賞賛する声もある)。近年はモーツァルトとシューベルトを軸とし、そこに色彩感の強い曲を織り交ぜる傾向にある。また宗教曲に対する関心も強く、ヴェルディの賑やかな曲をフルスロットで演奏するかと思えば、シューベルトのミサ曲をこじんまりと深く演奏する術も心得ている。 仕事相手に対するこだわり、慣習の拒否、同じプログラムばかり用いることなどから一部の聴衆からは拒絶されている。スカラ座では「カラスの亡霊」と呼ばれるブーイング集団を場外に追いやったり、ウィーン・フィルからお気に入りの奏者を引き抜いてスカラへ入団させたり、カラス以来の禁じ手とされてきた「椿姫」を敢行したりした。椿姫上演の際にオーケストラのストライキが発生すると、一人でピアノを弾いてまで強引に上演させた逸話を持つ。
[編集] 外部リンク
- Official bio (at Sony Classics)
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