ヨッヘン・マス
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F1での経歴 | |
国籍 | ドイツ |
生年月日 | {{{生年月日}}} |
没年月日 | {{{没年月日}}} |
車番 | {{{車番}}} |
所属チーム | サーティース ,マクラーレン , ATS ,アロウズ , RAMマーチ |
活動時期 | 1973 - 1982 |
過去の所属チーム | {{{過去の所属チーム}}} |
出走回数 | 105 |
優勝回数 | 1 |
通算獲得ポイント | 71 |
表彰台(3位以内)回数 | 8 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 2 |
F1デビュー戦 | 1973年アルゼンチンGP |
初勝利 | 1975年スペインGP |
{{{今年度}}}年順位 | {{{今年度順位}}} |
(記録は{{{最新レース}}}終了時) | |
最終勝利 | 1975年スペインGP |
最終戦 | 1982年フランスGP |
ヨッヘン・マス(Jochen Mass, 1946年9月30日 - ) はドイツのレーサーである。1989年ル・マン24時間レース覇者。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] キャリア初期
元々は船乗りをしていたが、レーサーに転職。当初からハコレースを得意としており、ヨーロッパツーリングカー選手権、イギリスツーリングカー選手権などに参戦し勝利を記録。特に1972年のヨーロッパツーリングカー選手権では5勝を挙げた。
一方、イギリスF3、ドイツF3などのフォーミュラカー・レースにも参戦しており、1973年のヨーロッパF2では2勝でシリーズ2位となっている。
[編集] F1
ハコレースへの参戦を続ける一方、前述したヨーロッパF2における活躍が評価され、1973年にはF1にサーティースからスポット参戦。翌1974年より正規シートを得るが、戦闘力は低く入賞を記録できず、シーズン途中でチームを離脱。
[編集] マクラーレン時代
サーティース離脱後は、2レースを欠場し、終盤2戦よりマクラーレンから出走した。その流れで、1975年はマクラーレンのNo.2ドライバーとして参戦、第2戦ブラジルGPで3位表彰台を獲得し、初入賞を記録し、続く第3戦南アフリカGPでも6位入賞。
すると第4戦スペインGPでは、予選11位から優勝。クラッシュの多発により、レースが大幅短縮される展開の中、打ち切り直前にジャッキー・イクスを抜いていたことによる勝利だった。またこれ以後、1992年第12戦ベルギーGPにてミハエル・シューマッハが優勝するまで、17年間ドイツ人がF1で優勝することはなかった。
マスは、その後も1977年までマクラーレンに在籍。前述した勝利に加え、2度のファステストラップ、ランキング最高位(1977年の6位)は全てマクラーレン時代に記録されたものである。コンスタントに入賞する走りから、「ベストセカンドドライバー」と評価された。
[編集] 1978年以後
マクラーレン離脱後は、下位・中堅チームを渡り歩くこととなり、レースの表舞台に登場する機会は減少した。加えて1982年の第5戦ベルギーGPでは、予選中にジル・ヴィルヌーヴと交錯。ヴィルヌーヴにラインを譲ろうとしたマスと、マスを抜こうとしたヴィルヌーヴは同方向に動いてしまい、ヴィルヌーヴのフェラーリは、マスのマーチに乗り上げ宙を舞った。
フェラーリは落下の衝撃で大破し、マシンから投げ出されたヴィルヌーヴは死亡。この接触においては、当時から「ヴィルヌーヴの運転ミス」、「レーシングアクシデント」とされ、マスが責められることはなかった。しかし、結局この年途中をもってF1から去り、ハコレースに専念することとなった。
この5年間での入賞は、マシン戦闘力の低さから5度に留まり、特に1978年のATS、1982年のRAM(マーチのプライベーター使用)では1度も入賞できなかった。
[編集] スポーツカーレース
マスはF1参戦中も、ヨーロッパツーリングカー選手権、世界メーカー選手権など、スポーツカーレースに参戦を続けていた。特に1978年からのポルシェでの活躍が知られており、1987年までの在籍において、多くのカテゴリーで勝利を記録した。
ポルシェが撤退した後は、ザウバーからメルセデス陣営の1人として参戦。1989年には、1972年より参戦していたル・マン24時間レースにおいて、マニュエル・ローターとのコンビで初勝利を挙げた。
レーサーとしての活動の一方、若手の育成も担当した。特に1990年代初頭において、シューマッハ、カール・ヴェンドリンガー、ハインツ=ハラルド・フレンツェンの所謂「メルセデスの三羽烏」を育てたことは、レースファンの間でよく知られている。