マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・オルレアンス
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マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・オルレアンス(María de las Mercedes de Orleans, 1860年6月24日 - 1878年6月26日)は、スペイン王アルフォンソ12世の最初の王妃。マリア・デ・ラス・メルセデスは「慈悲のマリア」を意味する名前である。フランス名はマリー・デ・グラース・ドルレアン(全名:Marie des Grâces Isabelle Françoise d’Assise Antonia Louise Fernande Philippe Amélie Christine Françoise de Paule Raymonde Rita Cayetana Jeanne Josépha Joaquime Anne Raphaëlle Philomène Thérèse de la Très Sainte Trinité Gaspara Melchiora Balthazara de Tous les Saints d'Orléans)。
モンパンシエ公アントワーヌ(フランス王ルイ・フィリップの末子)とスペイン王女ルイサ・フェルナンダ(フェルナンド7世の娘)の娘として、マドリードのマドリード王宮で生まれた。彼女はフランス王族であったが、同時にスペイン王女でもあった。イサベル2世の姪にあたり、父アントワーヌは結婚と同時に「スペイン王子アントニオ」の称号も持っていたためである。彼女は、幼年時代をセビーリャのサンテルモ宮殿でおくった。マリアの家族は、アントワーヌの王位への野心のせいで警戒され、マドリードに住めなかった。アントワーヌの子供たちには王位継承権があり、最も継承権が高いマリアの兄フェルナンドは13歳で死んだ。マリアは、姉のイサベル(のちパリ伯フィリップと結婚)、マリア・アメリア(19歳で死去)、妹マリア・クリスティナらとともに、最も近い順位にいることになった。
1860年代のスペインは、革命の動乱の中にあった。伯母イサベルが退位すると、マリアの一家も亡命した。1872年、12歳のマリアは従兄のアストゥリアス公アルフォンソと初めて出会った。
1876年、アルフォンソの即位が実現すると、同時にマリアとの結婚が発表された。この結婚に不同意のイサベル2世は(カルリスタのマドリード公カルロスの娘ブランカを花嫁にし、国内の対立を沈静化させる計画だった)、マリアに会おうともしなかった。自分の意が通らないなら一生結婚しないと言ったアルフォンソは、1878年1月にマリアとアトチャ教会で挙式した。マリアの黒い瞳と黒髪は「アンダルシアの夜の漆黒」と謳われた。この挙式は、スペイン史で広く知られるものの一つである。
新婚旅行のあと、マリアに肺結核の兆しが現れた。マリアは流産をし、1878年7月にわずか18歳で急死した。
王妃マリアは、黒衣と尼僧としての法衣を着、王立納骨堂ではなくエル・エスコリアルに埋葬された(子供を生んだ王妃だけが納骨堂に埋葬されるならいのため)。
衝撃のあまりアルフォンソは体調を崩した。首相カスティーリョが早く新しい王妃を迎えるべきだと勧めると、アルフォンソはマリアの妹マリア・クリスティーナを選んだ。不幸なことに、マリア・クリスティナも婚約中に肺結核に罹患して死んだ。2度の不幸に打ちのめされたアルフォンソは、従妹へのこだわりを捨て、オーストリア大公女マリア・クリスティナと結婚し、3人の子供を得た。なお、その第1子である長女はマリア・デ・ラス・メルセデスと名付けられている。
マリアは、マドリードの王宮の向かいに建てられた新しい教会、アルムデナ大聖堂に現在眠っている。1883年に建設が始まり、2000年11月にアルフォンソの遺言により、マリアの棺が移された。マリアの死から約100年後の2004年5月、アストゥリアス公フェリペとレティシア・オルティスがここで華燭の典を挙げた。