アントワーヌ・ドルレアン (モンパンシエ公)
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アントワーヌ・ドルレアン(仏:Antoine Marie Philippe Louis d'Orleans, duc de Montpensier, 1824年7月31日 - 1890年2月4日)は、フランスの王族。モンパンシエ公。
フランス王ルイ・フィリップと妃マリー・アメリーの末子として、ヌイイ城で誕生。
1846年10月、マドリードでスペイン王女ルイサ・フェルナンダ(スペイン女王イサベル2世の実妹)と結婚。この結婚により、『スペイン王子アントニオ』(Infante Antonio)の称号も得た。2人には10子が生まれた。
- マリー・イザベル(1848年 - 1919年) - パリ伯フィリップ妃
- マリー・アメリー(1851年 - 1870年)
- マリー・クリスティーヌ(1852年 - 1879年)
- マリー・ド・ラ・レラ(1856年 - 1861年)
- フェルディナン(1859年 - 1873年)
- マリー・ド・グラース(1860年 - 1878年) - スペイン王アルフォンソ12世妃
- フィリップ・レーモン(1862年 - 1864年)
- アントワーヌ(1866年 - 1930年)
- ルイ・マリー(1867年 - 1874年)
アントワーヌはスペイン王女を妃としたことで、スペイン王位への野望を隠さなかった。1848年に2月革命でスペインへ亡命。義姉イサベル2世に対抗して、反・宰相フアン・プリム派を支持した。1870年には、王配フランシスコの実弟であるセビーリャ公エンリケ・マリアと決闘して公を殺し、1ヶ月間投獄された。同年11月、イサベル2世に代わる国王がコルテスで選ばれた際、新王アマデオ1世が191票を得て選ばれたのに対し、アントワーヌはわずか27票しか得られなかった。