フェリペ2世 (スペイン王)
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フェリペ2世(Felipe II, 1527年5月21日 - 1598年9月13日)は、ハプスブルク家出身のカスティーリャ王国・アラゴン王国(=スペイン)の国王。1580年からはフィリペ1世(Filipe I)としてポルトガル国王も兼ねた。スペイン最盛期の国王で、絶対主義の代表的君主の1人とされている。
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[編集] 「書類王」としてのフェリペ2世
1527年神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)とポルトガル王マヌエル1世の娘イザベル(イザベラ)との間に生まれる。フェリペ2世は1556年にカルロス5世から(オーストリア大公国を除く)領土と同時に膨大な借金も受け継ぎ、翌年の1557年に最初の破産宣告(国庫支払い停止宣言:バンカロータ)をせざるを得なかった。彼の在位中にこれを含め4回のバンカロータを行っており、フェリペ2世の時代の厳しい国庫事情が伺える。しかしイタリア戦争においては1559年カトー・カンブレジ条約でフランスのイタリアに対する要求を放棄させた。
フェリペ2世はアラゴン王国にあった副王制を用いて帝国全体を統治した。各地に副王を置き、中央集権体制を整えたのである。1561年、国土の中央に位置するという理由でバリャドリッドからマドリードに宮廷を遷し、スペインの「首都」が初めて確定する。後にマドリード郊外にエル・エスコリアルを作り(1563年着工、1584年完成)、この宮殿の中から広大な領土への命令を発した。前王とは違ってほとんど宮殿に籠って政務に専念したため、「書類王」ともいわれる。
彼が作り上げた書類決裁システムは、当時のヨーロッパでは先進的といって良いものであったが、彼の死後にスペイン王国でこのシステムを機能させられた為政者はオリバーレス伯爵くらいであったとも言われる。
[編集] カトリックの盟主としてのフェリペ2世
「異端者に君臨するくらいなら命を100度失うほうがよい」と述べているほど、フェリペはカトリックによる国家統合を理想とした。本人も熱心なカトリック教徒であったとされる。本家オーストリアのハプスブルク家の皇帝が、プロテスタント勢力と迎合し、その信仰を許可(アウグスブルクの和議)した事に対し不満を持ち、カトリックの盟主になる事を自認したと言えよう。1559年に禁書目録が公布され、指定された大学以外の大学でスペイン人が学ぶことも、一時的にではあるが禁止された。またフランスのユグノー戦争にも介入し、カトリック側を支援した。
このような異端不寛容的政策に対して、1568年にはネーデルラントの反乱が、アルプハラース山地でモリスコ(キリスト教に改宗したモーロ人)の反乱が起こった。それでもカトリック盟主として1571年、レパントの海戦を率い、異母弟ドン・フアン・デ・アウストリアをヨーロッパ連合艦隊の総司令官に任命してオスマン帝国海軍に勝利し、1579年にネーデルラント南部諸州を八十年戦争から離脱させ、1580年にはポルトガルを併合してスペイン最大の版図を獲得した。インディアス(新大陸)、フィリピン、ネーデルラント、ミラノ公国、ブルゴーニュ家領(以上カスティーリャ王国領)、サルデーニャ島、シチリア島、ナポリ王国(以上アラゴン連合王国領)、ブラジル、アフリカ大陸の南西部、インドの西海岸、マラッカ、ボルネオ島(以上ポルトガル王国領)という広大な領土を手に入れ、「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれるスペイン最盛期を迎えた。
しかし、1581年にネーデルラント北部諸州はフェリペ2世の統治権を否認する布告を出した(これをもってネーデルラント(オランダ)連邦共和国の独立とする見方もある)。1588年、フェリペは北部諸州を支援しているイングランドをたたくために無敵艦隊を派遣したが、アルマダの海戦で敗北した。この頃からスペインに衰退の兆候が現れ始め、貴族位や領主権などの売却や、1590年にはミリョネス新税を導入している。この頃にはスペイン領アメリカからの貴金属の着荷も最大になったが、軍事費増大による国庫の破綻は防げず、1596年に大規模なバンカロータを行わざるを得なかった。さらに同年から約3年にわたってペストが流行。スペイン帝国に盛期をもたらしたフェリペ2世が死の床につく頃には、「スペインの世紀」は終わろうとしていた。
[編集] フェリペ2世の家庭
フェリペ2世は1543年、同年生まれのポルトガル王女マリア・マヌエラと結婚した。マリア・マヌエラの父はジョアン3世、母はカール5世の妹カタリナであり、父方でも母方でもフェリペの従妹に当たる。1545年に長男ドン・カルロスをもうけるが、同年に彼女は死去した。
1554年、11歳年上のイングランド女王メアリー1世と結婚した。メアリーは父カール5世の従妹に当たる。メアリーとは性格が合わず、1556年に即位のためスペインに帰国し、1年半後に3ヶ月ほどロンドンを再訪したのみで別居状態となった。既にこの当時における高齢出産の年齢であったメアリーは、婦人科系の病に冒されていた模様で、子をもうけないまま1558年にこの妻とも死別した。
1559年、フランス王アンリ2世の長女エリザベート・ド・ヴァロワと結婚した。イサベル・クララ・エウヘニアとカタリーナ・ミカエラの2女をもうけるが、彼女も1568年に死去した。さらにこの年には一人息子であったドン・カルロスも死去している。
1568年、オーストリア・ハプスブルク家のアナ・デ・アウストリア(オーストリアではアンナ・フォン・エスターライヒ)と結婚した。アンナの父、皇帝マクシミリアン2世はフェリペと同年生まれの従弟であり、母マリアはフェリペの妹であった。アナとは4人の息子と1女マリアをもうけるが、マリアとフェリペ以外のいずれの子供も夭折した。
残された子供はイサベル、カタリーナ、フェリペ(後のフェリペ3世)だけであり、大変家庭的に恵まれない人物であった。
[編集] 関連項目
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