ノックダウン生産
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ノックダウン(knock down)生産(KD生産)とは他国(他企業)で生産された製品の主要部品を輸入して、現地で組立、販売する方式である。組立業務のみであり、技術取得の観点からはライセンス生産とは異なり、組立技術は学べるが組立する製品を構成する個々の部品に関する設計製造の技術を獲得することまではできない。
別の形態として、国内工場での生産によるコスト高を回避するなどの目的から現地組立後、現地での販売はせずに元企業が組立分を再び買い取る「バイバック」とよばれる組立工場の国外拠点化も、近年ノックダウン生産と称されることがある。
ノックダウン生産は重工業製品で多く行われている。その理由は次のようになる。
- 組立国で調達困難な高度な技術の部品を多く必要としている。
- 完成品の単位体積あたりの価格が低いなど、輸送効率が乏しい。
- 完成品輸入時の関税を高く設定し、国策として工場を誘致している。
特に自動車産業において盛んである他、日本では航空機のライセンス生産直前の段階でもしばしば行われる。
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[編集] 自動車産業におけるノックダウン生産
[編集] 概要
ノックダウン生産の形態は、
- 全ての部品を輸入し、組立のみを行う場合
- 主要部品のみを輸入し、その他は現地で調達する場合
に大別される。自動車産業など国策で工場を誘致している場合は、現地調達率に関する数値目標が設定されることが多い。目標数値をクリアするしないで現地で販売するときの税金の設定額が変わってくるため、積極的な現地調達が施策される。但し、多くの場合は各自動車メーカーの関連部品会社が進出して現地調達率を確保することが多く、現地資本の企業の部品が積極的に用いられることは少ない。
現地調達される場合は板金部品から積極的に適用されることが多い。これは自動車における重量で大きな割合を占めること、現地に金型とプレス機械を設置して日本から現場指導員を派遣することで生産可能と判断されるためである。逆にエレクトロニクス部品や高精度な組立を要求するエンジン本体は現地調達されにくい。
[編集] 日本におけるノックダウン
日本では自動車産業黎明期に欧米メーカーのノックダウン生産を行っていた。戦前は米国のフォード、GMが自己資本で生産拠点を設立。1925年から日本フォード、1927年から日本GMが太平洋戦争勃発時まで操業し、CKD(コンプリート・ノックダウン生産)をおこなった。日本だけでなく中国などのアジアを視野に入れたものだった。
戦後になると戦後日本の産業復興のためには自動車産業の強化が必須であるとし当時の通産省の指導の元、日本の自動車メーカーの成長のために日本国として推進された。
1950年代初頭に東日本重工業(のち三菱日本重工業)が米国・カイザー=フレーザー社からカイザー・ヘンリーJを1951年に、いすゞ自動車が英国・ルーツ自動車からヒルマン・ミンクスを1953年に、日野自動車がフランス・ルノーからルノー・4CVを1953年に、日産自動車が英国・オースチン自動車からオースチンA40を1953年に、三菱自動車が中日本重工業、新三菱重工業の時期にカイザー=フレーザーの子会社となっていたウィリス=オーバーランド社からジープをノックダウン生産開始している。オースチンとジープは後にライセンス生産に切替えられ、とくにオースチンはA40からA50になった時点で部品を含めすべて国内生産され「完全国産化」と賞賛された。カイザー・ヘンリーJ、ヒルマン・ミンクス、ルノー・4CV、オースチンA40、A50はそれぞれ本国の会社では「最低価格帯におけるエントリー車」と位置づけられたものだったが、日本ではいずれも最高級車であった。このことからも当時の日本の乗用車産業のおかれた状況を推し量ることができる。
日本の自動車産業は成長するにつれ世界中に部品を輸出する側に回ることになった。日本車のノックダウン生産は現在発展途上国を中心に世界中でおこなわれている。
[編集] 航空機産業におけるノックダウン生産
航空機産業の場合はライセンス生産を前提として行われることがしばしばあり、日本ではF-15 イーグルやP-3C オライオン等においてライセンス生産の前段階で行われた。