ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト
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ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト(Nicolas-Jean de Dieu Soult, 1769年3月29日 - 1851年11月26日)は、ナポレオン戦争期に活躍したフランスの軍人、元帥。史上6人しかいない「フランス大元帥」の一人。後には政治家となった。日本では姓がスルトと表記されることも多い。
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[編集] 生涯
[編集] フランス軍人として
貧しい公証人の長男として生まれたニコラ=ジャン・スルトは、幼くして父を失った為16歳で王国軍に入隊した。兵士になることはこの頃最も手軽な就職法であったらしく、彼の弟も3年後に軍に入っている。スルトは優秀な兵士であった為すぐに軍曹(平民出身者の階級としてはかなり高い)となったが、軍隊生活に飽きた為2年で退役、貯めた金を元手に故郷でパン屋を始める。しかし収入が安定せず、すぐに軍に戻った。革命が始まるとこれを支持し、王国陸軍の優秀な下士官だった彼はすぐに将校に昇進(このあたりの経歴は他の将軍達と似ている)、5年後には将官になっている。
[編集] ナポレオンの麾下に
1798年にはイタリアで師団長を務めているが、この時の上官はマッセナ、同僚にはネイら、後にナポレオンの帝政下で共に元帥となる面々が顔を揃えていた。スルトは、ナポレオンがイタリア方面軍司令官となる直前にオーストリア軍と戦って負傷、捕虜になった為、ナポレオンとはじめて出会ったのはマレンゴの戦いの後となっている。しかし優秀な指揮官との定評があった上ナポレオンにも気に入られ、1803年には軍団長に昇進。この時期彼が施した厳しい訓練振りは、部下のみならず同僚やナポレオンまで恐れさせるほどだったが、彼のもとで鍛えられた将兵は後のフランス軍で中心的な役割を果たす事となり、スルトが優秀な教育者だったことを証明した。
[編集] 元帥時代
翌年には元帥に昇進、1805年のアウステルリッツの戦いでは勝利を決定付ける類い希な働きを見せ、ナポレオンをして「ヨーロッパで最も優れた戦術家」と言わしめ、この時彼が率いた第4軍団は「スルトの擲弾兵」として賞賛された。ドイツ戦役、オーストリア戦役でも常に抜群の働きを見せたが、スペイン戦役(半島戦争)では余りに酷い略奪振りやいがみ合う同僚の取り纏めの失敗(というより纏める気が最初から無かったと言うべきか)で統率者としての能力に欠ける点を露呈してしまう。また、一時期スペイン王位への妄想じみた野心まで抱いており、一時は反逆罪で軍法会議に掛けられかけたという。この後スペイン方面を中心に活動する傍ら主戦場となったドイツ方面でも戦っており、戦場では優れた働きを見せるものの戦略的には劣勢に追い込まれ、1814年にナポレオンが退位した時にはフランス国内のトゥールーズでイギリス軍に包囲されていた。
[編集] 変節か栄光か
王制復古後は戦争大臣を務めたが、ナポレオンがエルバ島から脱出するとその麾下に戻り、参謀総長に就任する。しかし優秀な前線指揮官ではあっても緻密なスタッフワークが苦手な彼にこの任を果たせる訳もなく、ワーテルローの戦いではグルーシー元帥との連携に失敗するなどの失敗を重ね(この時、彼がグルーシィに向け出した伝令は一人だけだった。ナポレオンは後に、かつての参謀総長ベルティエ元帥なら一ダースの伝令を出したろう、と悔やんでいる)敗北する。 ナポレオン再退位後の王制復古では冷遇されたが、1830年の七月革命では革命を支持、王位に就いたルイ=フィリップに重用され戦争大臣に就任して軍の再建に手腕を発揮。1832年には首相にまで登り詰め、1840年にはナポレオンのパリ改葬に立ち会い、1847年にはフランス大元帥(Maréchal général des camps et armées du roi)の称号を与えられる。こうして栄光と栄誉に包まれたまま、82年の長い生涯を終えた。
[編集] 人物像
ナポレオン麾下でも指折りの優秀な将軍であり、特に機動戦に優れた野戦指揮官だった。しかし戦略的視野には欠け、また組織を管理統率する手腕にも問題があった。冷静沈着だが冷酷なまでに非情な人物でもあり、また大変な俗物で地位、名声、金銭など非常に貪欲だった。スペイン戦線での略奪、虐殺は後々まで語りぐさとなっており、ウェリントンも「スルトはマッセナ以下である」と断じている。しかしながら結局ナポレオンの麾下で最も功成り名を遂げたのは、スウェーデン王(カール14世ヨハン)となったベルナドットを除けば彼であり、そういう意味で極めて運の強い人物ではあった。