ズラタン・イブラヒモビッチ
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ズラタン・イブラヒモビッチ | ||
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名前 | ||
愛称 | イブラ、ズラタニオ、イル・ジェニオ(Il Genio:天才) | |
カタカナ | ズラタン・イブラヒモビッチ | |
ラテン文字 | Zlatan Ibrahimović | |
基本情報 | ||
国籍 | スウェーデン | |
生年月日 | 1981年10月3日(26歳) | |
出身地 | マルメ・ローゼンガルテン | |
身長 | 192cm | |
体重 | 84kg | |
選手情報 | ||
在籍チーム | インテル | |
ポジション | FW | |
背番号 | 8 | |
利き足 | 右足 | |
クラブチーム1 | ||
年 | クラブ | App (G) |
1999–2001 2001–2004 2004–2006 2006- |
マルメFF アヤックス ユヴェントス インテル |
40 (16) 73 (32) 70 (23) 70 (37) |
代表歴 | ||
出場 | 53 | |
得点 | 20 2008年6月13日現在 |
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ズラタン・イブラヒモビッチ(Zlatan Ibrahimović, 1981年10月3日-)は、スウェーデン・マルメ出身でインテル・ミラノ所属のサッカー選手。ポジションはFW。愛称はイブラ、ズラタニオ、イル・ジェニオ(Il Genio:天才)。
目次 |
[編集] プレースタイル
その大柄な体格からは想像もつかないほどの繊細なボールコントロール技術と運動能力を有しており、アクロバティックなゴールを数多く量産する。また、ドリブルやトラップの技術も高く、恵まれた強靭な体躯からくるフィジカルの強さと相俟って極めて高いボールキープ力を誇る。彼の最大の武器はその全てを高次元で融合させたポストプレーであり、インテルの攻撃は彼にボールを預けてから始まると言っても過言ではない。しかし、ヘディングの技術は高いとは言えない。
彼の課題は感情のコントロールと言われ、アヤックス時代は空中戦で競り合う相手に肘鉄を食らわせたり、交代を告げられると文句や負け惜しみを所構わず口にしてしまったりと、気性の強さがマイナス方向に働く事も多かった。しかしユベントス所属時代には厳格な指導で知られるファビオ・カペッロ監督の下、少しずつ改善の様相を見せていった。特にインテル移籍後は自身の結婚や子供の誕生もあり、精神的に落ち着いてきたのか、熱くなったチームメートを自ら制止するなど、以前のようにピッチ内外で問題を起こすことは少なくなってきている。 FWでありながら、時折見せる相手へのハードタックルも印象的な選手である。
[編集] クラブ
「イブラヒモビッチ」の名が示す通り、ルーツをバルカン半島に持つ彼は、スウェーデンに移住したボスニア人の父セフィクとクロアチア人の母ジュルカとの間に生まれた。幼い頃から、4点ビハインドの試合で交代選手として投入され8得点を奪うなど、「単独で局面を打開出来る」選手として傑出した才能を示す。1995年にスウェーデン屈指の強豪であり自身の地元のクラブでもあるマルメFFと契約し、1999年にトップチームデビューを果たす。しかしそのシーズン、マルメFFはまさかの2部リーグ降格という憂き目に遭う。主力選手が移籍していく中、イブラヒモビッチはこれを「レギュラー獲りのチャンス」と考え、その読み通りに翌シーズンレギュラーとして活躍。26試合12得点の成績を残し、チームの1部リーグ復帰に大きく貢献した。
すると、この活躍を見たアヤックスやアーセナルなどのビッグクラブがイブラヒモビッチ獲得に乗り出す。特にアーセナルはアーセン・ヴェンゲル監督が自ら背番号9を保証するなど懸命に獲得を試みたが、最終的には10代の選手としては破格の、そしてチーム史上最高額の780万ユーロ(約10億2200万円)の移籍金を提示したアヤックスに移籍することとなった。そのアヤックスでかつてマルコ・ファン・バステンやパトリック・クライファート、ヌワンコ・カヌなど錚々たる選手たちが背負った栄光の背番号9を受け継ぐことになる。ピッチ内外で度重なるトラブルを起こし、その素晴らしいプレーよりも問題児ぶりをクローズアップされてしまったものの、2001-2002シーズンのオランダカップ決勝で決勝ゴールを決めるなど徐々にチームの主力となっていく。2002-2003シーズンもUEFAチャンピオンズリーグで4得点、エールディビジで10得点を挙げ、レギュラーの座を不動のものとした。翌シーズンは足の故障のため3ヵ月欠場するが、復帰後は16試合13得点という抜群の決定力を見せ付けPSVアイントホーフェンからの王座奪回に寄与すると、この年にカペッロ監督を招聘していたユヴェントスが獲得を画策し、1900万ユーロ(約26億円)もの移籍金で活躍の場をセリエAに移すことになる。
当初は、アレッサンドロ・デル・ピエロ、ダビド・トレゼゲに次ぐ3番手のFWと目されていたが、2004-2005シーズンのセリエA開幕戦ブレシア戦でデビューし、早速ゴールを挙げると、トレゼゲやデル・ピエロの故障もあって、カペッロ監督の信頼を得始める。彼らの復帰後もユヴェントスフォワード陣の柱となり、最終的に35試合16点の成績を挙げ、ACミランからのセリエA王座奪回に大きく貢献した。2005-2006シーズンも2トップの一角としてトレゼゲと抜群のコンビネーションを見せ、ユヴェントスのセリエA首位独走に貢献した。2006/2007シーズンからは、ユヴェントスの審判操作疑惑によるチームのセリエB降格の影響により、2460万ユーロ(約37億円)の移籍金で昨シーズンまでと同じセリエAの強豪インテルへの移籍が発表された。
2006-2007シーズンは彼にとって、もっとも成功を収めた年となった。創造性溢れるプレイと強靭なフィジカルによってゴール量産、セリエA初年度の16ゴールには及ばなかったものの15ゴールを記録し、インテルの15度目のスクデットに貢献した。特にトリノ戦で決めた右サイドからのボレーシュートはマルコ・ファン・バステンがEURO1988において決めたゴールを連想させるもので彼の才能を再確認させるものであった。このような活躍ができた要因としてユヴェントス在籍時と違い、インテル監督ロベルト・マンチーニによって自由を与えられたという点があげられる。しかし、セリエAにおける活躍に対してチャンピオンズリーグでは無得点と実力を発揮しきれず、ベスト16での敗退の大きな要因となってしまった。
[編集] 代表
代表テビューは2001年1月31日のフェロー諸島戦である。2002年日韓W杯の最終メンバーにも20歳の若さで選出されたが、グループリーグのアルゼンチン戦と決勝トーナメント1回戦のセネガル戦の2試合30分の出場にとどまった。
EURO2004の本大会からレギュラーに定着すると、グループステージ第1節のブルガリア戦でPKを決め、続く第2節のイタリア戦ではゴールに背を向けたままジャンプしながら踵でループシュートを決めるという美技を披露し、チームをグループステージ突破に導く。準々決勝のオランダ戦、PK戦にもつれ込んだこの試合で3番目のキッカーとして登場するが、これを外してしまい、オランダに敗れてしまう。
2006年ドイツW杯欧州予選でも8試合8得点を記録し、スウェーデン代表として本大会への切符を手にした。しかし、代表でも試合前の国歌斉唱中に他のメンバーが歌っているのにもかかわらず、彼だけチューインガムを膨らましているシーンがテレビで放送され、国民から反感を買うなど、代表でも問題児ぶりを発揮した。本大会でも活躍を期待されたが無得点に終わり、チームも開催国・ドイツに敗れベスト16にとどまった。2006年9月の欧州選手権予選期間中に「規律を守らなかった」としてクリスティアン・ヴィルヘルムション、オロフ・メルベリらと共に同国代表を追放される。その後、二転三転あったものの、2007年3月の試合から代表復帰を果たした。
[編集] その他
- ユヴェントス時代のチームメイトであるファビオ・カンナヴァーロに勧められて2006年2月に髪を丸刈りにしている。
- テコンドーの有段者である。ハイボールをとらえるアクロバティックなシュートは、幼少時からのテコンドーのキック練習の賜物と言っている。
- 自分のヒーローはモハメド・アリだと明言している。
- 自らの所有するベンツで数回事故を引き起こしている。
- 以前所属していたユベントスの試合の前、他の選手がウォーミングアップをしているさなか、チューイングガムでリフティングをしていた。
- アヤックス時代は素行の悪さで何度も問題になったことがある。その中でも空中戦による肘鉄は猛威をふるい、相手選手が怪我をすることが多かった。現に2002-03シーズンには肘打ちにより5試合の出場停止処分を受けている。同じスウェーデン代表のFWマルクス・ローセンベリや、アヤックス時代の同僚ラファエル・ファン・デル・ファールトとは仲が悪いことで知られる。特にラファエル・ファン・デル・ファールトには、オランダとの国際試合で彼を殴り負傷させ、退場に追い込んだ。また、同じく当時同僚であったミドとロッカールームで喧嘩をし、ハサミを投げつけられてもいる。
- ユベントスからインテルへ移籍する会見で「自分はインテリスタだ」と発言し、ユヴェンティーノから激しい顰蹙を買った。
- 11歳年上の妻と息子が一人居る。妻の名前はヘレン、息子の名前はマキシミリアン。
[編集] 所属クラブ
[編集] 個人タイトル
- UEFAベストイレブン(2007)
- セリエA最優秀外国人選手(2005)
- スウェーデン最優秀選手(2005、2007)
[編集] 個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
スウェーデン | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1999 | マルメ | アールスヴェンスカン | 6 | 1 | |||||||
2000 | マルメ | スーペレッタン | 26 | 12 | |||||||
2001 | マルメ | アールスヴェンスカン | 8 | 3 | |||||||
オランダ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2001-02 | アヤックス | 9 | エールディヴィジ | 24 | 6 | ||||||
2002-03 | アヤックス | 9 | エールディヴィジ | 25 | 13 | ||||||
2003-04 | アヤックス | 9 | エールディヴィジ | 22 | 13 | ||||||
2004-05 | アヤックス | 9 | エールディヴィジ | 3 | 3 | ||||||
イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2004-05 | ユヴェントス | 9 | セリエA | 35 | 16 | ||||||
2005-06 | ユヴェントス | 9 | セリエA | 35 | 7 | ||||||
2006-07 | インテル | 8 | セリエA | 27 | 15 | ||||||
2007-08 | インテル | 8 | セリエA | 26 | 17 | ||||||
通算 | スウェーデン | 40 | 16 | ||||||||
オランダ | 74 | 35 | |||||||||
イタリア | |||||||||||
総通算 |
インテルナツィオナーレ・ミラノ - 現所属メンバー |
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1 トルド | 2 コルドバ | 4 サネッティ | 5 スタンコビッチ | 6 マクスウェル | 7 フィーゴ | 8 イブラヒモビッチ | 9 クルス | 10 アドリアーノ | 11 ヒメネス | 12 ジュリオ・セザル | 13 マイコン | 14 ヴィエラ | 15 ダクール | 16 ブルディッソ | 18 クレスポ | 19 カンビアッソ | 21 ソラーリ | 22 オルランドーニ | 23 マテラッツィ | 24 リバス | 25 サムエル | 26 キヴ | 28 マニシェ | 29 スアソ | 30 ペレ | 31 セーザル | 45 バロテッリ | 71 アルフォンソ 監督: マンチーニ |
スウェーデン代表 - UEFA欧州選手権2004 | |
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1 イサクション | 2 ルチッチ | 3 メルベリ | 4 ミャルビー | 5 エドマン | 6 リンデロート | 7 ニルソン | 8 A.スベンソン | 9 ユングベリ | 10 イブラヒモビッチ | 11 ラーション | 12 ヘドマン | 13 M.スヴェンソン | 14 ヤコブソン | 15 ワールステット | 16 シェルストレーム | 17 A.アンデション | 18 ヨンソン | 19 ファルネルド | 20 アルベック | 21 ヴィルヘルムション | 22 ハンソン | 23 シールステット | 監督 ラーゲルベック |