スティーブ・ジョブズ
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スティーヴ・ジョブズ Steve Jobs |
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本名 | Steven Paul Jobs |
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生年月日 | 1955年2月24日(53歳) |
出生地 | アメリカ合衆国・カリフォルニア州サンフランシスコ |
国籍 | アメリカ合衆国 |
民族 | シリア系アメリカ人 |
職業 | アップル社CEO |
配偶者 | ローレン・パウエル |
家族 | 実子2人。養子3人。 |
スティーブ・ジョブズ(Steven Paul Jobs、1955年2月24日 - ) はアメリカ合衆国の企業家。スティーブ・ウォズニアック、マイク・マークラらと共に、商用パーソナルコンピュータで世界で初めて成功を収めたアップル社の共同設立者の一人。また、そのカリスマ性の高さから、発言や行動が常に注目を集め続ける人物である。
ファーストネームをスティーブンまたはステファン、ファミリーネームをジョブスとして表記されることもあるが、アップル日本法人公式サイトではスティーブ・ジョブズと表記している。
目次 |
[編集] 略歴
スティーブ・ウォズニアックと共にワンボードマイコン「Apple I」を開発・販売し、アップル社設立後にはパーソナルコンピュータ「Apple II」を発表。株式公開後には2億ドルもの巨額を手中にし、20代でフォーブスの長者番付に載った数少ない人物だった事から世間の注目を集める。
ゼロックス社パロアルト研究所を見学した際、Altoで動作していた暫定Dynabook環境のグラフィカルユーザインターフェースにインスピレーションを受け、パーソナルコンピュータ「Lisa」を開発。続いてジェフ・ラスキンらのマッキントッシュ・プロジェクトの主導権を握り、新たなコンピューター像を創造する。発表された「Macintosh」は当時存在したあらゆるパソコンを凌駕する洗練されたもので、再び時の人となる。しかし、本人の立ち居振舞いのために社内を混乱させたとされ、アップルの役員達から社内での全ての職を剥奪される。
アップル退職後、ルーカスフィルムのコンピュータ・アニメーション部門を買収してピクサー・アニメーション・スタジオを設立。自ら創立したNeXT Computerで、ワークステーション「NeXTcube」とその上で動く先進的OS NEXTSTEPを開発した。1996年業績不振に陥っていたアップル社にNeXTを売却する事で復帰、1997年には暫定CEOとなる。
その後ライバルとされていたMicrosoftとの資本連携に踏み切り、Macintosh互換機へのライセンスを停止,社内のリストラを進めてアップル社の業績を回復させた。2000年正式にCEOに就任、iMac・iPod・Mac OS X・iPhoneといった斬新な製品を次々リリースして話題を呼び、多くの消費者の絶大な支持を得ている。
プレゼンテーションの素晴らしさ、ライバル企業の経営者をも惹き付ける人間的魅力で知られる。暫定CEOに就任して以来、基本給与を年1ドルしか受け取っていない[1](実質的には無給与であるが、社会保険などの為に必要であるため)ことで有名であり、このため「世界で最も給与の安いCEO」とも呼ばれている[2]2006年にピクサーをディズニーが買収したことにより、ディズニーの個人筆頭株主となり役員に就任しているが、ディズニーからの役員報酬は辞退している。これはフォーブスの2007年度世界長者番付によると57億ドルとも言われる巨額資産の持ち主としては極めて異例のことであるが、大富豪であるために出来ることでもある。
[編集] 経歴
[編集] 幼少期
1955年、シリア人の政治学者、アブダルファン・ジャンダリとアメリカ人の大学院生ジョアン・シンプソンの間に生まれる。誕生以前から養子に出すことに決められていたため、ポール・ジョブズ、クラリス・ジョブズ夫婦に引き取られることになった。ジョアン・シンプソンはジョブズ夫婦が大学卒でないことを知り、養子縁組を躊躇したが、ジョブズ夫婦が彼を大学に進学させることを約束して縁組が成立した。ジョブズが実の母と再会するのは、彼が30歳を過ぎた頃である。作家のモナ・シンプソンは彼にとって異父の妹になる。
[編集] 青年期
ジョブズは10才の頃BASICをマスターし、コンピュータに興味を持つようになったと言われている[3]。
高校生だった1971年、ヒューレット・パッカードの夏季インターンシップで働いていた時に、スティーブ・ウォズニアックと出会う。容姿も性格も正反対の二人であったが、すぐに意気投合した。ある時、ウォズの母親から貰った「エスクティア」という雑誌の1971年10月号に掲載されていた、 ブルー・ボックス と呼ばれる装置を使って無料で長距離電話をかけるというフリーキング(不正行為)の記事を読んだ二人は、スタンフォード大学の図書館に入り込み、AT&T(ベル社)の技術資料を見つけ出して、自分たちでオリジナルのブルー・ボックスを作り上げた。二人は、この装置で長距離電話をかけまくったという。ウォズはこの装置を作ったことで満足したが、ジョブズは当時ウォズの通っていたカリフォルニア大学バークレー校の寮で、1台100ドルから150ドルで売りさばいていた。装置自体は一台40ドル程度で、大いに儲かったようだが、そのうち銃で脅されるような状態になり、身の危険すら感じたジョブズは一切の販売を辞めてしまう。その後1972年オレゴン州のリード大学へ進学した。ジョブズは大学に半年間通ったが中退してしまう。1年間コーラの瓶を売って食費を稼ぎ、リード大学のキャンパスを放浪して哲学やカリグラフィ(西洋書道)の教室に通っていた。
[編集] アタリとの関わり
ジョブズは1974年初め、アタリ にテクニシャン(下級エンジニア)として採用され、40人目の社員として、技術部長であるアラン・アルコーンの下で働いた。長髪で風呂に入らずビルケンシュトックサンダル(または裸足)でうろつく不潔な姿のため社内で嫌われたが、アタリのトップであるノーラン・ブッシュネルは気に入って採用したという。ジョブズはドイツまでゲームの修理に行く傍ら、友人ダン・コトケと共にインドに数ヶ月間も放浪の旅をし、坊主姿でカリフォルニアに帰ってきた。
その後ブッシュネルから直々に新製品「ブレイクアウト」(ブロックくずし)の回路の部品減らしを命じられ「減らした数だけ報酬が出る」と言われたが、ジョブズは自身では出来ないことをすぐ認識した。ジョブズは部外者のウォズニアックを毎晩こっそり社内に招き入れ、ウォズニアックはゲームをしたり勝手に基板を改造していたので、その傍らに作業を頼んだ。ウォズニアックは4日間徹夜して部品を20~30個も減らしたが、余りに窮屈で難解な設計はウォズニアック自身にしか理解出来なかったため、ジョブズは会社からやり直しを命じられる。その場で取りつくろおうとしたが当然できず、結局はまたしてもウォズニアックに泣きつくことになった。そしてウォズニアックは、多少部品は増えたものの誰もがわかる程度に設計の変更を行った。
ジョブズは報酬の山分けをウォズニアックに提案、アタリから受け取った「700ドル」のうち350ドルを小切手でウォズに渡したが、実際には5000ドルを受け取っており、差額はオレゴン州の共同農場につぎ込んでいた。1984年頃ウォズニアックはアルコーンに偶然出会った際、ジョブズによる報酬搾取の事実を知り、ジョブズとウォズニアックとの間にはしばらく確執があった。ともあれウォズニアックは、後述のAppleIやIIを設計する際「ブレイクアウト」の部品減らしが、大変役に立つ勉強だったと語っている。なおアルコーンはアタリを退職後、アップルコンピュータにも勤めていた時期がある。
[編集] Apple I
詳細はApple Iを参照
1975年、Altair 8800というコンピュータ・キットが発売され人気を博していた。ウォズは、MOSテクノロジー社の6502ならより安く、しかも簡易な回路のコンピュータを作る事ができると考え、10月から半年間かけて設計。ホームブリュー・コンピュータ・クラブでデモを行い賞賛された。ウォズはヒューレット・パッカードで働いていた事から、「自身の開発した物は上司に見せなければいけない」として、ジョブズの反対を押し切りヒューレットに商品化を持ちかける。しかし当時のヒューレットは、個人でコンピューターを持つ意味が理解出来なかった為にウォズを軽くあしらってしまう。アタリのアルコーンもほぼ同様の反応で、二人は資金を集め、自分たちでこのコンピューターを売り出すことを決意する。ジョブズはワーゲンバスを、ウォズはヒューレット・パッカードのプログラミング電卓を250ドルで売り払い、資金を集めた。そして、製造したコンピュータをアップル(正確にはApple Computer I)と名付け、1976年6月Apple Iは666.66ドルの価格で販売が始められた。
アップルのネーミングの由来には多くの諸説があるが、この件については米Apple社の公式なコメントはされてないため「こういう意味である」という断定は出来ない。ただし、アップルの命名者がウォズではなくジョブズという事だけは紛れもない事実であり、本当の由来はジョブズしか知らない。 ちなみにウォズが「アメリカン・ドリーム」(マイケル・モリッツ著)で語っているところによれば、社名選考でジョブズが「アップルというのはどうか?」と突然言い出したとされる。それに対してウォズは「2人(ウォズ、ジョブズ)とも音楽好きであったのでビートルズのレコード会社として有名なアップルから思いついたのかもしれない」とのコメントを残している。
[編集] アップルコンピュータ設立
ジョブズは約8,000ドルの利益を手に、多忙で商談出来なかったブッシュネルの紹介で出会ったマイク・マークラに起業の話を持ちかける。マークラはインテルの中級社員だったが、目先の現金が欲しい同僚や友人からストックオプションの株をコツコツと買い集め、インテルの株式公開時には巨額の富を手に入れていた。そして紹介されたジョブズらの話に興味を持った彼は1976年11月にアップルに加わり、自身の個人資産の92,000ドルを投資し1977年1月3日、3人はアップルコンピュータを法人化した。株式はジョブズ、ウォズ、マークラで3割ずつ持ち合う事となった。
1977年5月、ナショナル・セミコンダクターから引き抜いたマイク・スコットが4番目の社員となる。ウォズは、アップルに注力するためにヒューレット・パッカードを退社し、Apple Iの再設計を開始した。処理能力向上とディスプレー表示のカラー化、拡張スロット、内蔵キーボード、データ記録用カセットレコーダをもつApple IIをほとんど独力で開発。1977年6月5日、1,298ドルで発売されたApple II は爆発的人気を呼び、1980年には10万台、1984年には200万台を超える売り上げで莫大な利益をアップルにもたらした。1980年アップルはIPO(株式公開)を果たし、750万株を持っていたジョブズは2億ドルを超える資産を手にした。
[編集] リサとマッキントッシュ
1981年、IBMがIBM PCを発売し、パーソナルコンピュータ市場へ参入した。次第にApple IIはシェアを奪われてゆき、新しい製品が待望されるようになった。1978年、Apple IIを打ち破る次世代パーソナルコンピュータとして、Lisa(リサ)・プロジェクトが立ち上げられた。リサという名前はジョブズが当時付き合っていた女性との間にできた子供の名前(リサ・ブレナン・ジョブズ:後に実子として認知。ハーバード大学卒業後、執筆家として現在活動中)から付けたと噂された。
1979年、XEROX社のパロアルト研究所を見学し、ビットマップディスプレイとマウスを前提とする「Alto」でGUIを実現した「暫定Dynabook環境」(開発者のアラン・ケイらは、SmalltalkをOSとして動作するAltoをこう呼称した)のデモに大きな衝撃を受けたジョブズは、開発中のLisaにこれと同じ機能を持たせる事を考え、自らプロジェクトを率いて行く事となった。1979年アップルに入社したジェフ・ラスキンは、Apple IIが一般の人々には複雑すぎると考えていた一人だった。彼はカリフォルニア大学サンディエゴ校での教え子であったビル・アトキンソンを雇い、Apple IIのメンテナンス担当だったビュレル・スミスなど数人で1979年、マッキントッシュ・プロジェクトを開始する。このマッキントッシュは誰にでも簡単に扱える、ノート代わりのコンピューターを目指していた。
一方ジョブズは、会社内での独断専行の立ち居振舞いから、社長のスコットによってリサ・プロジェクトのメンバーから外されてしまう。行き場が無くなったジョブズは1981年、突如としてマッキントッシュ・プロジェクトに参画を宣言する。殴り込みを掛けるかのような突然の展開ではあったが、数人で動いていたマッキントッシュ・プロジェクトはジョブズを迎え入れた。そしてハード担当がジョブズ、ソフト担当がラスキンとなり、取締役だったジョブズの働きで予算も開発メンバーも増え、同時にリサ・プロジェクトからも次々とスタッフの引き抜きを行った。しかしリサを上回るものにしようとするジョブズが、ソフト(OS)に関しても口を出し始めたためにラスキンと対立してしまう。ことごとく対立を繰り返した挙げ句、ラスキンは役員に対して「ジョブズの首を取るか、自分を新たな場に移すか」と直談判するが、最終的に役員サイドは、マッキントッシュ・プロジェクトにジョブズを押し込めておく方が会社にとって悪影響が少ないと考え、ジョブズの考えを優先してしまう。そして1982年3月、ラスキンはアップルを去っていった。
ジョブズはマッキントッシュにはシンプルな美しさが必要だと考え、基板パターンが美しくないという理由で設計案を幾度となく却下した。また、同じく美しくないという理由で拡張スロットの採用を拒否したり、みすぼらしいフロッピードライブのイジェクトボタンをなくさせる(ソフト的に排出させる)事も行わせた。筐体は机上の電話の横に置かれる電話帳程の大きさが理想だとし、30cm四方のサイズに収まる様に提案。筐体デザインはよくドイツのフロッグデザインと誤解されるが、実際はジェリー・マノック(米Apple社員)の手によってデザインされたものである。以上のように手間を惜しまなかったがゆえに開発は難航し、マッキントッシュがデビューしたのは1984年1月の事だった。
[編集] アップルコンピュータ解任とNeXT社設立
ジョブズとの対立が悪化していたスコットが1981年、マークラによって解雇されてしまう。ジョブズはスコットの後任としてマーケティングに優れた人物を連れてくる必要に迫られ、ペプシコーラの事業担当社長をしていたジョン・スカリーに白羽の矢を立て引き抜き工作を行った。この時、スカリーを口説くために「このまま一生、砂糖水を売りつづけるのか、それとも世界を変えたいとは思わないのか。」(Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world?)と言ったのだった。そして熱烈なジョブズのラブコールもあり、1983年ジョン・スカリーがアップルの社長の座に就いた。当時はジョブズとスカリーは強力なパートナーシップの為にDynamic Duoと呼ばれアップルの経営を押し進めた。
1984年後半、ジョブズはマッキントッシュの需要予測を大幅に誤り、アップルはマッキントッシュの過剰在庫に悩まされた挙げ句に初めての赤字を計上してしまう。そしてアップルは、従業員の1/5にあたる人数のレイオフ(人員削減)を余儀なくされた。アップルの経営を混乱させているのはジョブズだと考えるようになったスカリーは、マッキントッシュ部門からジョブズを解任する事を取締役会に要求する。それを察知したジョブズは、スカリーの中国出張中にアップルからの追放を画策するが、アップル・フランスで功績を上げていたジャン=ルイ・ガセーの密告により、スカリーはジョブズが自分をアップルから追い出そうとしている事を知る事となる。その後、スカリーは1985年5月24日の取締役会でジョブズの画策を問いただし、結果的に彼はアップルでの(会長職以外の)すべての仕事を剥奪される。
アップルでの仕事が無くなったジョブズは、会長職のみに留まり、新たなプロジェクトすら立ち上げられない状況に留まる事に絶望してしまう。そしてジョブズは、理想のコンピュータ像を求めて大学を歩いて回った際に、スタンフォード大学でノーベル賞受賞者の生物学者ポール・バーグと昼食を取る事となったが、その時にDNA組替え実験の難しさの話題が上った。ジョブズはバーグへコンピュータでのシミュレーションを提案し、同時に、高等教育のためのコンピュータという構想を膨らませた。同年9月12日、その構想を実現すべく、ジョブズは新しい会社NeXTを立ち上げるために正式にスカリー宛てに辞表を送付した。また、決算報告を受け取るための1株だけを除いて、当時所有していたアップルの株、約650万株をすべて売却した。
当初ジョブズは700万ドルをNeXTに投資し、1987年までには新しい製品が投入できるともくろんでいたが、実際にNeXTの製品(NeXTcube)を発表できたのは1988年秋で、最終版の出荷は1989年になってのことだった。ジョブズはそれでも「5年は先取りしている」と語ったが(結果的にはMac OS Xの12年の先取り)、NeXTのロゴデザイン(ポール・ランドに依頼)に10万ドルを投じたり、OS(NEXTSTEP)の凝った仕様を開発するべく膨大な時間をかけたり、NeXTcubeの筐体デザインをフロッグデザインに依頼するなど、NeXTはあっという間に資金を食いつぶしていく。1987年にはフォードで成功していたロス・ペローから2000万ドルの出資を、1989年にはキヤノンから1億ドルの出資を引き出した。
発表当初からNeXTの評価は高かったが、ジョブズが強硬に主張した、フロッピードライブの代りにキヤノン製の独自の光磁気ドライブ(5インチMOドライブ)を採用したことや、加工の難しいマグネシウム合金の筐体を使う事等によって生産コストが高く付き、またモトローラからのCPU(MC68030)供給が遅れるなどにより、思うように販売が伸びなかった。1992年にはサン・マイクロシステムズ等のワークステーション並に高価な価格だった事と、(当時は)その他のハードウェアと直接的に接続する事が出来ない等の理由でハードウェアの販売が伸び悩んでいた事もあり、IBM互換機で動作するNEXTSTEPのPCバージョンを発表する。1993年2月10日には全社員530人のうち280人をレイオフし、ハードウェア部門をキヤノンに売却(FirePowerSystems設立)してソフトウェア会社と転じることとなる(社名もNeXTソフトウェアへと変更される)。
NeXTcubeは開発と運用のしやすさから世界初のウェブサーバとして用いられたという大きな功績も残している。またWebObjectsは世界初のウェブアプリケーションサーバ開発運用環境となった。NEXTSTEPとその開発機能は、ウェブサーバ等を比較的簡単に開発構築・運用出来る利便さを兼ね備えてものであり、今日のMac OS Xにも脈々と受け継がれている。
[編集] ピクサー
NeXT社の仕事の一方で、ジョブズは1986年2月7日にルーカスフィルムのコンピュータ関連部門を1000万ドルで買収しCEOの座についた。ピクサーの主要商品は、レンダーマンというSGIのIRIX上で動くレンダリングソフトであり、約10万本のセールスを記録し『ジュラシックパーク』のCG製作でも使われた。ジョブズは、ピクサーに対してあまり口出ししなかったが、手っ取り早く利益があげられるコンテンツ作成をピクサー社のメンバーに提案した。
1991年、ピクサーはディズニーにCGアニメーション映画作成の売込みを行い、同年3月3日に3本の劇場用作品の契約を結んだ。この結果、4年の歳月と、70台のSGIワークステーション、117台のSUNワークステーションを使った全編コンピュータ・グラフィックスのアニメ映画『トイ・ストーリー』が1995年11月22日に封切られた。公開までの4年間、ジョブズはピクサーに5000万ドルを投資しており、「こんなに金がかかるとは思っていなかった」と告白している。しかし、トイ・ストーリー公開直後にピクサーは株式を上場、またもジョブズは多額の資産を手に入れることになった。
2006年5月5日、ディズニーはピクサーを買収し、同社はディズニーの完全子会社となった。またジョブズ自身もディズニーの個人筆頭株主(持株率約7%)になると同時にディズニーの役員に就任した。
なおジョブズはアップルに返り咲いた後もピクサーの業務を優先させるスタンスを取っているが(アップルからの給与を年1ドルとしたのもその為)、これについて「コンピュータ業界は競争社会だが、映画は良い作品さえ作れば人々は何本でも観てくれるから」と語っている。
[編集] 結婚
ジョブズは1991年、スタンフォード大学のMBAで学んでいた9歳下のローレン・パウエルと結婚し、3月8日にヨセミテ国立公園のホテルで挙式を行った。同年の9月に息子のリードが生まれた。リードはジョブズの学んだ大学名から名付けられたものである。後に、かつては会う事も拒否していたリサを認知し、ジョブズ家の子供として迎え入れている。
[編集] アップルコンピュータ復帰
NeXTはソフト事業に特化した後、世界初のウェブアプリケーション開発・運用環境であるWebObjectsを出荷、NEXTSTEPも自社内開発を行う金融機関などに受け入れられ、まずまず安定した経営をしていた。しかし、ゴールドマン・サックスを頼って株式公開を目指すなどをしていたが失敗に終わっている。
1995年末、ジョブズは、友人でオラクル創業者のラリー・エリソンと共同で経営の傾いたアップルの買収を画策する。エリソンは、Windowsを打倒すべく、シン・クライアント環境のNC(ネットワークコンピューティング)を提唱しており、ジョブズと共にこれをアップルによって実現しようと考えていた。しかしこの考えはジョブズと合わず、最終的には買収提案がなされる前に話自体が流れてしまった。
ジョブズは1996年の11月ごろ、アップルが自社内でのOS開発が暗礁に乗り上げ、次期OSの基本技術を外部に求めているという話を聞く。アップルにNEXTSTEPを売り込むべく、当時アップルのCEOだったギル・アメリオに電話をかけた。12月上旬に入ってから、1985年の退社以来、久しぶりにアップルを訪れ、アメリオやマークラ達と話し合いを持ち、簡単なプレゼンテーションを行った。アメリオは後に、この時のジョブズの対応や愛想を非常に良い、好感の持てるものだったと言っている。
アメリオとアップルCTOのエレン・ハンコックは、次世代Mac OSの候補としてBe社のBeOS、サン・マイクロシステムズ社のSolaris(ソラリス)、マイクロソフト社のWindows NT、そしてNEXTSTEPの4つを挙げていた。元々アメリオは、ワークステーションやサーバで用いられ、堅実に動作するUNIXの中でも、特にカーネギーメロン大学で開発されたMachに目を奪われていた。そしてそのMachについて調べて行くうちに行き着いたのがNEXTSTEPであった。NEXTSTEPの高い信頼性、リリースから7年経ってなお先進的な機能もさることながら、特にWebObjectsの出来に感動し、ジョブズからの売り込みがなくても交渉は行うつもりでいたのだった。
ジョブズ同様に話を聞きつけてやってきたBeのジャン=ルイ・ガセーも、アメリオに対してBeOSの簡単なデモを行う。アメリオはBeOSの良さ(軽く動作し、扱い易い)を認識していたが、Be設立から数年経ってもBeOSには未完成部分が多く、製品版OSが発表される見込みが一向に立たない状態であった。BeOSを出荷できるようになるまで膨大な作業が予想されることが明らかであったにもかかわらず、ガセーが法外とも言える金額を吹っかけて来たことも、懸念材料となった。
その時点でアメリオの腹は決まっていたのだが、ガセー率いるBeOSと、ジョブズのNEXTSTEPを比較するプレゼンテーションが行われた。ジョブズはNEXTSTEPの良い面も悪い面も全てさらけ出し、自分の不得意な分野は同行させたエンジニアと二人で進行させ、完璧なプレゼンテーションを終えた。時間をずらして行われたBe(ガセー)のプレゼンテーションは午後から行われたが、なんとガセーは一人でアップルにやって来たのだった。既に「Beに決まった」と確信していたガセーは、「(プレゼンテーションは既に行っているので)BeOSは以前にご覧頂いた通りです」と発言してしまう。
同年12月20日、アップルがNeXT社を4億ドルで買収することに合意、次期OSの基盤技術としてNEXTSTEPを採用すると発表した。ジョブズはアップルに非常勤顧問という形で復帰した。この際、アメリオからプレゼントされた、20周年記念マッキントッシュ(Spartacus)を窓から投げ捨てたという噂があったが真偽は定かではない。
1997年2月、正式にNeXT買収が完了した。アップルに復帰する際、買収代金の一部として6か月先まで売却できないとの条件で150万株の株式を譲渡されていたが、アップルの復活を半ば諦めていた事もあり、期日が来るなり、またしても1株を残して即座に売却してしまう。
そしてそんな最中、ジョブズは自身がCEOに返り咲くべく社内で隠密に行動を開始し、アメリオを追い出すための画策を講じる。「アメリオは未だにアップルの業績を向上させられない」として全ての役員を味方につけ、彼をCEOから引きずり下ろす事に成功する。7月にアメリオが退社すると経営陣はジョブズにCEO就任を要請したが、彼は多忙を理由にこれを断った。ジョブズはアップルの士気をあげるため従業員のストックオプションの引き下げを役員に株主提案をしたが、役員のほぼ全員がこれを否定すると、ジョブズは(当時は)筆頭株主であった立場を利用し、役員たちに辞任を迫る。結局、マイク・マークラを含む経営陣はほとんどが辞任し、その後任としてエリソンや、ジョブズの縁のある人物が就任した。
8月にボストンで開催されたマックワールドエキスポでは、議決権の無い株式譲渡と技術提携(特許裁判をしない為の条件)という名目を条件にマイクロソフトから1億5000万ドルの資金提供と、マック版のマイクロソフトオフィス(オフィス)とインターネットエクスプローラの提供を受けることを柱とした業務提携を発表する。最大のライバルとされたビル・ゲイツがエキスポのゲストとしてスクリーンに登場すると、何も知らなかった観客にはブーイングする者も多く、複雑な心境でその様子を見つめていた。しかしこの提携が一定の役割を果たしたのは事実で、その後もPDAのニュートン事業の清算などいくつかのプロジェクトを中止,アップル社内のレイオフを進め、大規模なリストラを行った。前後してインターネット直売事業への参入(Apple Store)を行い、Macintosh互換機メーカーへのMac OSライセンスを停止、利益率の高いPowerPC G3搭載機種を市場に独占投入。こうした矢継ぎ早の改革により、アップルの再建を軌道に乗せた。1998年にはiMacを市場に投入、斬新なコンセプトが話題を呼び、アップルの復活を人々に強く印象づけた。
[編集] CEO就任
2000年には、それまで拒否していたCEO就任を正式に受諾。2001年、NeXTとAppleの技術を融合させ、オープンソース由来の技術を積極的に取り込んだMac OS Xを発売。同年、iTunesとiPodによって音楽事業に参入、音楽事業をパソコンと並ぶアップルの事業の柱にした。
2004年、膵臓ガンと診断されたが、幸いにも治療可能なガンの種類であった。ごく親しい人以外には秘密にして同年の8月に摘出手術を受けた。療養後、仕事に復帰した。
2005年、スタンフォード大学[4]の卒業式に招かれた。そのスピーチは多くの共感を持って迎えられ「Stay hungry, stay foolish.」という結びの言葉で締めくくられた。
[編集] ジョブズに対する評価
- ジェイ・エリオット
「ジョブズには1000マイル先の水平線が見えていた。しかし彼にはそこに到達するまでに通らなければならない道の詳細は見えていなかった。それが彼の天才性であり落ち度でもあった。」
- ジェフ・ラスキン
「他人の脳みそを盗むのはジョブズにとって普通のやり方さ。まず人のアイデアを鼻であしらっておいて、その1週間後には、素晴らしいアイデアを思いついたなんていいながら戻ってくる。そのアイデアというのは、もちろん1週間前に誰かがジョブズに話したアイデアなんだ。我々はジョブズのことを現実歪曲空間と呼んでいたのさ。」
- ジョン・スカリー
「スティーブはまさに刺激的な存在だ。放漫で、暴虐で、激しく、無い物ねだりの完全主義者だ。彼はまた、未成熟で、かよわく、感じやすく、傷つきやすくもある。そして精力的で、構想力があり、カリスマ的で、さらにおおむねは強情で、譲らず、まったく我慢のならない男だ。」
- ロバート・サットン(スタンフォード大教授)
「人は私がクソ野郎についての本を書いていると聞きつけるや否やスティーブ・ジョブズについての話を話し始めただろう。シリコンバレーでいかにジョブズが恐れられているか、そのレベルには驚嘆するものがある。彼は人を震え上がらせ、悲嘆にくれさせる。だが、彼はほとんどいつも正しく、たとえ間違えている時でも、その創造性の豊かさには目を見張るものがある。」
- ジャン・ルイ・ガセー(Be社創業者、元アップル社員)
「民主主義に沿ってたんじゃ、素晴らしい商品なんて創れっこない。闘争本能の固まりのような独裁者が必要なんだよ。」
[編集] 人物像
アップル復帰当時は、上記のような解任前後のジョブズに対する人物評から、完璧主義による強引な経営を懸念する者もいた。しかし、復帰後は対立しているとされていた競合他社とも提携するなどし、ライバル企業の経営者をさえも惹き付ける人間性で知られている(オラクルのラリー・エリソン等は彼の友人である)。また、人を引き抜く際にはその人を強く揺り動かす『魔法』を唱える事で知られ、前出のスカリーをペプシから引き抜く際の文句の他に、1982年当時ゼロックスで働いていたエンジニア、ボブ・ベルヴィールには『君は優秀だと聞いたけど、(ここでやってきたのは)全部クソばかりだな。俺ん所で働けよ(I hear you're great, but everything you've done so far is crap. Come work for me.)』と語りかけて引き抜いている[5]。
物事を切り離して捉える合理的な考え方を持っており「ソニーのHDVカメラは優秀で、高価だが一家に一台必要だ」と言う一方で、「iPodに劣る」としてウォークマンを批判するといった姿勢を示すこともある。1999年10月5日のメディアイベントのスピーチ冒頭で、ソニー共同創業者盛田昭夫の死に追悼の意を表し、トランジスタラジオやトリニトロン、ウォークマンなど革新的な商品開発をアップルに大きな影響を与えたものとして賞賛している。また物事を完全に白黒のみで判断し、製品に対しては『超最高(insanely great)』か『クソ(shit)』、人に対しては『天才(genius)』か『間抜け(bozo)』と言った表現を用いる[5]。しばしば何の予告もなしに突然価値観を180度変える事もあり、3ヶ月前に白が最高だと言っていたのに、今では黒が最高だと言い始め、理由はそれが今正しいからいいんだと、自身以外は納得のいくものは何も口にしないと元社員は語っている[5]。
部下に対して高い目標を提示し、精力的に優れた仕事へと導くため、理想の上司として評価される事も多い。と同時に、ジョブズの要求する水準を満たさない者に対しては放送禁止用語だらけの罵声を浴びせたり、その場で即クビにする事でも知られ、前アップルPR担当チーフのローレンス・クレィヴィアはジョブズとのミーティングの前には必ず闘牛士と同じように『自分は既に死んだ』と暗示をかけてから挑むと同僚に語っていた[5]。また、ジョブズのアップル復帰後に次々と社員がリストラされた際には「スティーブされる」(=クビになる)という隠語が生まれた。
また、アップルコンピュータ社の暫定CEOに就任して以来、当時赤字続きだったアップルのために自分はピクサー社の収入があるとし、一貫して給与は毎年1ドルしか受け取っていないことは有名である(しかし、慢性的赤字から経営を回復させた功績により、高額の成功報酬及びストックオプションがアップル社から与えられている。この1ドルという額は居住地の州法により、社会保障を受けるために給与証明が必要なことによる)。実際、2004年にはストックオプションのほかの成功報酬はなく、本当に1ドルしか受け取っていない。
日本にも彼のファンは多い反面、日本では熱狂的な支持者がいるPowerBook 2400cを講演で失敗と片付けたり(売り上げからみれば実際に明らかな失敗であったが)、日本人の事を「海岸を埋めつくす死んだ魚」と表現するなど、辛辣な一面を見せることもある。ジョブズ自身は日本の文化に関しては関心も高く、日本食を好み、特に蕎麦が好物である。アップル本社の食堂Mac Cafeにはジョブズが考案したという「刺身ソバ」なるメニューがある。尚、そこで働く日本人スタッフの女性は、ジョブズの為に築地で本格的な蕎麦打ちの修行をした程。 また、若い頃から禅に傾倒し、その師匠として非常に敬意を払っていた日本人がおり、NeXTへ"老師"として招いたり、結婚式の際には仲人を頼んだ程とも言われている。
腹心の部下であるバッド・トリブルが使い始めたという現実歪曲空間 (en: Reality Distortion Field) は、たとえ彼をよく知る人間がそれに備えていたとしても抵抗できないといわれている。Macintoshの開発時、ジョブズの引き留めに逆らって会社を辞める方法として「ジョブズのオフィスで立ち小便をする」という無力化案が考案されたほどである。
食生活ではヴェジタリアンの立場をとり、食事には強いこだわりを持つという。アップルに復帰後、社員食堂を自社運営に切り替えて、ジョブズ自身がスカウトしたシェフが腕を振るっている。また仏教徒であり、禅宗の僧侶、コブン・カイノ(Kobun Chino)を精神的指導者と慕っており、結婚式にも招待している。
ちなみにジョブズは英国のロックバンド ビートルズ(特にジョン・レノン)の大ファンであり、アップルコンピュータの新製品プレゼンテーションで、実際にThe Beatlesのジャケット写真を使ったことが過去に数回ある。
型破りな性格は経営だけではおさまらず、愛車のメルセデスにはナンバープレートをつけていない。これについて彼は2001年のフォーチュン誌に『ちょっとしたゲームなんだよ』と語っている[5]。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ [1]
- ^ (但し、成功報酬を賞与として、現金換算すれば莫大な額となる自社株(株価が膨れ上がった為に2008年時点の換算では1億ドル以上の合計で550万株)やストックオプション1000万株分、自家用飛行機などを受け取った年もある)。
- ^ しかし、この話の出典は不明であり、BASICは1964年つまりジョブズが9~10歳の時にダートマス大学で汎用コンピュータ用に開発された言語で、当時パソコンはなかったことから、この話は間違いであると判断できる(汎用コンピュータの端末に触れる環境か、ビル・ゲイツとポール・アレンが8ビットパソコン用BASICを開発した1975年を待つ必要がある。)。
- ^ ジョブズの卒業式スピーチを字幕で
- ^ a b c d e “The Trouble with Steve”, フォーチュン, 2008年3月16日.
[編集] 参考文献
- Paul Kunkel. Apple Design. 1997年. Watson-Guptill Pubns. ISBN 1888001259
- Owen W. Linzmayer. Apple Confidential 2.0. 2004年. No Starch Press. ISBN 1593270100
- Owen W. Linzmayer. Apple Confidential. 1999年. (邦訳あり)No Starch Press. ISBN 188641128X
- ギル・アメリオ『アップル薄氷の500日』(ソフトバンククリエイティブ、1998年)ISBN 4797306157
- ジェフリー・S・ヤング『スティーブ・ジョブズ パーソナルコンピューターを創った男』(JICC出版局、1989年)上:ISBN 4880636002、下:ISBN 4880636010
- ランドール・ストルス『スティーブ・ジョブズの道 SteveJobs & TheNeXT BigThings』(エーアイ出版、1995年)ISBN 4871933342
- ワーナーホームビデオ『バトル・オブ・シリコンバレー』Pirates of Silicon Valley(1999年、米映画)
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