ジョルダーノ・ブルーノ
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ジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno,1548年-1600年2月17日)はイタリア出身の哲学者、司祭、天文学者。ブルーノは記憶術の研究と、太陽系外の惑星の存在および地球外生命の存在を唱えたことで有名。異端であるとの判決を受けても決して自説を撤回しなかったため、火刑に処せられた。ブルーノは思想の自由に殉じた殉教者とみなされることもある。
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[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
1548年にイタリアのノーラ(カンパニア州、当時はナポリ王国領内)で生まれたブルーノはもともとフィリッポ・ブルーノ(Filippo Bruno)という名前であり、父ジョヴァンニ・ブルーノは兵士であった。11歳のときナポリに留学、15歳でドミニコ会に入会し、ジョルダーノを名乗った。1572年、勉学を終えると司祭に叙階された。
ブルーノは哲学を好み、さらに自ら考案した記憶術を駆使して人々を驚かせた。20世紀初頭、イギリスの歴史家フランシス・イェーツ(Frances Yates)はブルーノの記憶術が「ヘルメス思想」に属する魔術的な側面が強かったことを指摘して論議を呼んだ。ブルーノの時代に「再発見」されて話題となっていたヘルメス・トリスメギストスのものとされる著作は、古代エジプトにさかのぼるものとみなされていたが、最近の研究では紀元300年ごろネオプラトニズムの影響下で書かれた著作であることがわかっている。ブルーノはキリスト教の三位一体思想より古代の汎神論に強い影響を受けていたことがわかっている。
ブルーノの思想に大きな影響を与えたのは上記のヘルメス・トリスメギストスに帰される著作とルネサンス時代に入って再発見されたプラトン思想、およびコペルニクスの宇宙論であった。それと同時に神学界で伝統的に尊重されていたトマス・アクィナス、イブン=ルシュド(アウェロエス)、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス、ニコラウス・クザーヌスなどの思想の影響も受けていた。
1576年、異端審問所の追及を逃れようとナポリを離れたブルーノはドミニコ会を退会し、ジェノヴァに向かった。同地で一時的にカルヴァン派に合流したブルーノは、コペルニクス説を唱えたことを責められてカトリック教会から破門された。イタリア半島を離れたブルーノはフランスへ向かった。
1579年、トゥールーズに現れたブルーノは同地で教壇に立ち、優れた記憶力が話題となった。彼の記憶術は合理的なものであったが、同時代の人々は「魔術的」な力であると考えていた。フランスでアンリ3世などの強力な庇護者を得たブルーノは7年にわたって同地で活躍し、20冊以上の著作を著した。そのなかには『灰の水曜日の晩餐』(Cena de le Ceneri,1584年)や『無限宇宙・諸世界について』(De l'Infinito, Universo e Mondi,1584年)などがある。『灰の水曜日の晩餐』では(あまり説得力はないが)コペルニクスの太陽系モデルを支持している。『無限宇宙・諸世界について』では、ブルーノは空の星はすべて太陽のごときものであり、無限の宇宙には地球以外にも知的生命体が存在すると論じた。(ドレイクの方程式の項も参照。)1582年にはこれらの著作と別に自らの宇宙論を戯曲仕立てでまとめた『啓蒙者』(Il Candelaio)を執筆している。
[編集] 諸国放浪
1583年、ブルーノはアンリ3世の推薦書を持ってイギリスに赴き、オックスフォード大学での教授職を得ようとしたが、同地で受け入れられず、イギリスで教壇に立つという望みは果たされなかった。1585年、ブルーノはパリに戻ってきたが、アリストテレスの自然科学を批判した120のテーゼが問題とされた上、カトリック教会のお墨付きを得ていた数学者ファブリツィオ・モルデンテをも批判していたことからパリでの信用を失い、ドイツへと去ることになった。ドイツではマールブルグでの教授職は得られなかったが、ヴィッテンベルク大学での教授許可を得ることができた。同地でアリストテレスについて二年間講義したが、自身の性格が原因で徐々に周囲と軋轢を起こすようになった。自分が邪魔者扱いされていると思ったブルーノは1588年にドイツを去り、今度はボヘミアのプラハに現れた。そこでルドルフ2世に300テーラーという年俸を保証されたが、教授職は得られなかった。どうしても教壇に立ちたいブルーノはヘルムシュタットに移ったが、ルター派の権威者たちの反感をかって破門された。このころのブルーノはどこに行っても民衆に人気はあっても、権威者から疎まれる存在であった。
1591年、放浪を繰り返していたブルーノがフランクフルトにいたことが知られている。そこで彼はヴェネツィアのズアン・モチェニゴなる貴族から記憶術の指南を受けたいという招請を受けた。彼の中にパドヴァ大学の数学教授になりたいという望みが強くなった。かつて異端審問所の嫌疑を受けたことで離れたイタリアであったが、もう安全だろうと考えたブルーノは久しぶりにイタリアに戻った。はじめに赴いたパドヴァ大学でブルーノは就職活動を行ったが、ガリレオ・ガリレイに教授職を持っていかれてしまった。夢破れたブルーノはヴェネツィアのモチェニゴの家庭教師を2ヶ月つとめた。モチェニゴはどうやら異端審問所の依頼を受けてブルーノを呼んだものと考えられている。ブルーノは異端審問所の依頼によって1592年5月22日にヴェネツィアの官憲に逮捕され、ローマへと引き渡された。
[編集] 裁判・処刑
ローマでの裁判はなかなか実施されず、ブルーノは6年を獄中で過ごした。彼への告発理由は神への冒瀆、不道徳な行為、教義神学に反する教説であり、ブルーノの哲学と宇宙論にみられるいくつかの点も問題とされた。ブルーノは教皇クレメンス8世に直接面会して自説の一部を撤回することを明言すれば嫌疑は晴れると考えていたがこれはかなわなかった。ようやく異端審問が行われると、当時の異端審問所の責任者であったロベルト・ベラルミーノ枢機卿はブルーノに対し、自説の完全な撤回を求めた。
ブルーノは断固としてこれを拒絶したため、1600年1月8日に異端判決が下った。(異端審問所は判断のみで処罰は行わなかったので)刑を執行するため世俗の権力に引き渡された。1600年2月17日、ローマ市内のカンポ・デ・フィオリに引き出されたブルーノは火刑に処されて命を落とした。判決時、審問官に対し「私よりもこの判決を申し渡したあなたたちの方が恐怖に震えているのです」といったといわれている。ブルーノの著作のすべては1603年に禁書目録に加えられた。
ブルーノの処刑後280年がたった1889年、イタリアのフリーメーソン関連団体によって処刑が行われた場所にブルーノの像が建てられた。
カトリック教会の歴史における負の遺産の清算を訴えた教皇ヨハネ・パウロ2世のもとで、ブルーノに対する裁判過程も再検証され、「処刑判決は不当であった」という判断が下された。この動きはもともとナポリ大学の神学部のドメニコ・ソレンティーノ教授らによって始められたもので、カトリック教会が公式に判決を取り消したことでジョルダーノ・ブルーノの名誉が完全に回復された。
[編集] ブルーノと宇宙論
[編集] 当時の人々の宇宙観
16世紀の後半、コペルニクス・モデルはヨーロッパ全域で知られるようになっていた。ブルーノはコペルニクスが観察よりも数学的整合性を重要視したことを批判していたが、地球が宇宙の中心ではないという点についてはコペルニクスに賛同していた。ただブルーノはコペルニクスの理論の中にある「天界は不変不朽で地球や月とは異なった次元のものである」と意見には賛同しなかった。ブルーノは世界の中心は地球か太陽かなどという議論を超越し、3世紀のプロティノスやさらに後の時代のブレーズ・パスカルのような思想、すなわち宇宙の中心などどこにも存在しないという立場にたっていた。
ブルーノの在世時、コペルニクスのモデルにはまだまだ欠陥が多く、天動説の方が明快に説明できることが多かったため、コペルニクスの説に賛同した天文学者はほとんどいなかった。わずかにミヒャエル・メストリン(Michael Maestlin ,1550-1631)、クリストフ・ロスマン(Cristoph Rothmann)、トーマス・ディッグス(Thomas Digges)などが挙げられる程度である。ヨハネス・ケプラー(1571年-1630年)とガリレオ・ガリレイ(1564年-1642年)はまだまだ若く無名の存在だった。ブルーノは本当の天文学者とはいえないが、もっとも早い時期に地球中心説を退けてコペルニクスの世界観を受け入れた著名人であった。1584年から1591年にかけて執筆した著作の中でブルーノは盛んにコペルニクスを擁護している。
アリストテレスとプラトンによれば、宇宙は完全な球体であり、さまざまな球体が入れ子構造になっていて回転していると考えた。その回転力を与えているのは超越的な神であり、神は宇宙とは別次元に存在しているとされた。恒星は最も外側の天球に貼り付けられており、全宇宙の中心こそが地球であるというのが二人の宇宙観であった。プトレマイオスは恒星を1022個数え、48の星座に分類している。惑星もそれぞれ透明な球体の上にあって運動していると考えられていた。
コペルニクスの宇宙論も決して完全なものではあったわけではなく、古代以来の概念を多く継承していた。たとえば(プトレマイオスからは)惑星が球面上に固定されているという考え方を受け継いでいたが、その不可解な動きの原因は地球の公転であることは見抜いていた。また、コペルニクスは宇宙には不動の中心が存在するという概念も持ち続けていたが、中心にふさわしいのは地球よりも太陽であると考えていた。恒星はかつて天球上に貼り付けられているため地球から等距離にあると信じられていたが、そのことについてコペルニクスは特に言及していない。
[編集] ブルーノの宇宙論
ブルーノの主張でもっとも画期的だったものは「地球自体が回転しており、それによって地球上からは見かけ上天球が回転しているように見える」ということであった。ブルーノはまた、「宇宙が有限であること」あるいは「恒星は宇宙の中心から等距離に存在している」と考える理由はないとした。
ブルーノの宇宙論は先行するトーマス・ディッグスの1576年の著作『天界論』(A Perfit Description of the Caelestial Orbes)とも共通する部分がみられるが、ディッグスは中世において信じられていたように、恒星天の外側が神と天使の世界であると考えていた。またディッグスは宇宙の中で地球だけが生命と知性の存在しうる場所であること、不変の天界に対して地球だけが変化する世界であると考えた。
1584年、ブルーノは二つの重要な著作を出版した。ブルーノはその著作の中で惑星が天球の上に階層をなして存在しているという説を批判した。この主張は二年後の1586年にロスマンが続き、さらに1587年にはティコ・ブラーエも続いた。ブルーノは無限宇宙が「純粋気体」で満たされていると考えた。これは後に創案される「エーテル」概念のはしりであり、この気体は惑星や恒星の動きに一切影響を及ぼすことはないとされた。ブルーノの宇宙論で特筆すべきことは、それまで信じられていた宇宙が特定の中心から広がる階層球によって成り立っているという考え方を否定し、地球も太陽も宇宙の一つの星にすぎないと主張したことにあった。
地球だけが特別な星であるという当時の常識に挑戦するかのように、ブルーノは神が宇宙の一部だけに特別に心を配ることはないと考えた。彼にとって神とは心の中に内在する存在であって、宇宙のどこかにある天国にいて地球を見ているものではなかった。
ブルーノは四元素説(水、気、火、土)は信じていたものの、宇宙が特別な物質でできているのではなく地球とおなじ物質からなっているとし、地球上でみられる運動法則が宇宙のどこでも適用されると考えた。さらに宇宙と時間は無限であると考えていたことは、宇宙の中で地球だけが生命の存在できる空間であるという当時のキリスト教的宇宙観を覆すものとなった。
このような考え方に従うなら、太陽も決して特別な存在でなく、あまたある恒星の一つにすぎないことになる。ブルーノは太陽を惑星が囲む太陽系のようなシステムは宇宙の基本的な構成要素であると考えた。ブルーノにしてみれば神が無限の存在である以上、無限の宇宙を創造することはなんらおかしなことではないということであった。ブルーノはアリストテレス以来、伝統的に信じられてきた「自然は真空を嫌う」ことを信じていたため、宇宙にある無数の太陽系の間はエーテルによって満たされていると考えていた。彗星は神の意志を伝える役割をもって天界から到達するというのもブルーノのアイデアであった。
ブルーノの宇宙論の特徴は宇宙の無限性と同質性の提示、さらに宇宙には多くの惑星が存在していると考えたことにあったといえる。ブルーノにとって宇宙とは数学的計算によって分析できるものでなく、星達の意志によって運行しているものであった。このようなアニミズム的宇宙観は現在のわれわれから見れば突拍子もないものに見えるが、ブルーノの宇宙論のポイントの一つである。
[編集] ブルーノに関連する事物
月の北緯36度、東経103度にはジョルダーノ・ブルーノと名づけられた直径20キロのクレーターがある。このクレーターは1178年に隕石の衝突によってできたものと考えられている。1178年のこの出来事はイングランドの修道士によって目撃・記録された[1]。
[編集] 脚注
- ^ 『天に梯子をかける方法』(紀伊国屋書店)