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ジャン・トッド - Wikipedia

ジャン・トッド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2005年
2005年

ジャン・トッドJean Todt, 1946年2月25日 - )は、フランスカンタル県Pierrefort出身のF1チーム、スクーデリア・フェラーリの元チーム代表である。

現在はFIA・WMSC(世界モータースポーツ評議会)におけるフェラーリ代表を務めている。

[編集] 経歴

父親のミニクーパーSを駆って友人と乗り回したのがモータースポーツキャリアの始まりである。

それから、数々のラリーレースで様々な役どころを演じるようになり、自分の力が向いている方向を見定めて後は、ドライバーの補佐をするコ・ドライバーに専念し、1972年には、日産ワークスチームのコ・ドライバーとしてモンテカルロ・ラリーに出場し、ラウノ・アルトーネンとのコンビで、240Zを総合3位に導いている。

その後、1981年に引退するまでの間に、プジョーのラリーチームに身を置き、世界ラリー選手権(WRC)への参戦を続けた。現シトロエン・スポール監督のギ・フレクランと組んだ1981年シーズンには、シリーズ2位を獲得している。

コ・ドライバーを引退した後も、チームは運営部門のスタッフとしてトッドがチームにとどまることを望んだため、レース部門のマネージャーに就任(プジョー・タルボ・スポールの誕生)、1982年からWRCの車体デザイン部門の組織構築を委ねられた。出足は鈍かったが、1984年に投入されたプジョー205T16が1985年になって初のタイトルを獲得すると、翌年も連覇を果たし、トッドによって組織されたデザイン部門から生まれた車体は選手権の支配に成功し、ラリー、ヒルクライム、そして1990年代にはル・マン24時間レースで監督としてチームを率いて1992年、1993年と連覇するなど、監督として大いに活躍し、「優勝請負人」と称されるようになった。

トッドはかねてF1での仕事を望み続けていたが、この頃のプジョーはF1への進出を決めかねていたため、スクーデリア・フェラーリからF1チームの監督を要請されたのを好機として、トッドはプジョーと別れ、1993年夏のフランスグランプリからスクーデリア・フェラーリチームに加入した。

当時のスクーデリア・フェラーリは低迷期で、チームは建て直しを必要としていた。ここでもトッドは、出足は鈍く徐々に、という形で動き、加入翌年の1994年ドイツグランプリゲルハルト・ベルガーの手で優勝1回を遂げると、翌1995年もジャン・アレジによる優勝1回、と、劇的ではないが、徐々にチームの軌道を上向けていった。

1996年にミハエル・シューマッハが加入すると、翌年までに「戦略家」ロス・ブラウン、デザイナーロリー・バーンがそろい、この強力なトリニティにより、チームは劇的に強化され、スクーデリア・フェラーリは1999年から2004年までコンストラクターズ(製造者)タイトルを6年連続獲得することとなるのである。

トッドは、フェラーリの社長ルカ・モンテゼーモロとともに、これらのスクーデリア・フェラーリのチーム改革における立役者と考えられている。結果として、スクーデリア・フェラーリは、F1チームの成績だけでなくフェラーリ本社の業績も上がり、エンツォ・フェラーリ死後において、初めて黄金時代を享受することとなった。

2001年2月に、フランス政府からレジオンドヌール勲章(コマンドール)を、2007年1月にも、レジオンドヌール勲章(グランドフィシエ)を贈られた。

また、フェラーリ・ロードカーの辣腕(らつわん)セールスとしての面も持ち、各種イベントやパーティーで、顧客に直接契約を持ちかける姿が見られる。特に、受注が芳しくなかった612の拡販に力を発揮した。

2006年 フェラーリ本社のCEOに就任。

2008年以降はトッドはスクーデリア・フェラーリ代表を退きステファノ・ドメニカリが同チームの代表になっている。

2008年3月18日 フェラーリ本社のCEOを退任。同時にフェラーリのGTカーレース、スポーツ・マネージメントに就任した。

[編集]

  • 2006年の人事異動によりフェラーリ本社の最高経営責任者に就くことになったトッドだが、それ以前はFIA会長マックス・モズレーの引退に関連し、トッドがFIAの役員選挙に立候補するのではないかと噂されていたことがあり、当のモズレー自身、「トッドなら会長としても申し分ないだろう」という趣旨のコメントを発してもいた。
  • 2000年頃のフェラーリの主要スタッフ、ジャン・トッド、ミハエル・シューマッハ、ロス・ブラウン、ロリー・バーン、パオロ・マルティネリ、いずれかの人物がフェラーリチームから離脱した場合、即座に他の人物の契約も解除できる契約になっていると言われていた。
  • モンテゼモロなどフェラーリ社内の承認を得ずに契約をすることが多々ある為、モンテゼモロとの不仲説が囁かれている。フェリペ・マッサが2010年迄契約延長した背景にフェリペ・マッサのマネージャーがジャン・トッドの息子であるニコラス・トッドである為ジャン・トッドを残留させるかマッサを契約延長させるか交換条件を提示した。またモンテゼモロはフェルナンド・アロンソをドライバーとして契約する構想があるがジャン・トッドはアロンソとは不仲であるから上記の事由に加えて契約させない為の方法であったと言われている

[編集] 人物


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