サミュエル・ラングレー
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サミュエル・ピエールポント・ラングレー(Samuel Pierpont Langley, 1834年8月22日 – 1906年2月27日)はアメリカの天文学者、発明家で航空のパイオニアの一人である。スミソニアン博物館の3代目の事務局長でスミソニアン天体物理観測所の設立者であった。1903年に2回の飛行試験を試みたが成功しなかった。ボロメータの発明者でもある。 Boston Latin Schoolを卒業後、ハーバード大学天文台で助手を勤め、海軍兵学校で数学の教鞭を取った。1867年、アレゲニィ天文台の所長に就任して、西ペンシルベニア大学(現ピッツバーグ大学)の天文学教授に就任した。1891年まで勤め、その間、1887年、3代目のスミソニアン博物館の館長に就任した。ラングレーはスミソニアン天体物理観測所の開設者である。
1886年、太陽物理における業績を称えてヘンリー・ドレイパー・メダルを全米科学アカデミーより授与される。同じく1886年にランフォード・メダルを受賞している。1890年に出版されたピッツバーグのアレゲニィ天文台でのフランク・ワシントン・ヴェリーとの赤外線の共同観測における著作はスヴァンテ・アレニウスによって初の温室効果の計算に使用された。
ラングレーの飛行機の実験はゴム動力の模型とグライダーから始められた。回転装置を作って翼の研究を行った。軍から5万ドルの予算を得て有人飛行機の製作を試みた。1896年試作した無人の動力付の模型は2キロメートル以上を飛行した。有人飛行実験は、危険を小さくするためにポトマック川の水上で行うことにした。1903年10月7日と12月8日の実験はカタパルトから射出する方法で行われたが、2回とも成功しなかった。技術的には、ライト兄弟のもの(12馬力)より、重量あたりの出力の大きいエンジン(52馬力)を搭載していた。このエンジンはシリンダーを放射状に5本配置したもので、空冷星形エンジンの嚆矢となった。2枚の主翼を前後に配置したタンデム翼の機体でピッチとヨーの制御はできたがロールの制御はできなかった。2回目の飛行ではカタパルトから打ち出された機体は反転して川に墜落した。機体の名前はエアロドロームという。
ライト兄弟が「フライヤー1号」で初飛行に成功したのはそれから間もない1903年12月17日のことであった。しかし、直前のラングレーのこの失敗のため、兄弟の初飛行のニュースは報道機関から疑問視されてほぼ黙殺されてしまった。
1914年にライト兄弟と飛行機の特許で争っていたグレン・カーチスによってラングレーの飛行機が復元され、飛行できたことを示されたが裁判所はライト兄弟の特許を認めた。
ちなみにライト兄弟は飛行機の研究を進めていたときに、何度かラングレーに手紙を書いて教えを請うてもいる。
[編集] 関連項目
- 航空に関する年表
- 同時期(1880年代-1900年代)の飛行機開発者
- 帝政ロシア - アレクサンドル・モジャイスキー
- ドイツ - オットー・リリエンタール(グライダー)
- イギリス - ハイラム・マキシム
- イギリス - A・V・ロー
- イギリス - S・F・コディー大佐
- イギリス - パーシー・ピルチャー
- フランス - クレマン・アデール
- オーストリア - ヴィルヘルム・クレス
- ニュージーランド - リチャード・ピアース
- アメリカ合衆国 - グスターヴ・ホワイトヘッドまたはグスタフ・ヴァイスコプフ
- アメリカ合衆国 - オクターヴ・シャヌート
- アメリカ合衆国 - オーガスタス・ヘリング(元、シャヌートの協力者。後に独立して動力機を製作)
- アメリカ合衆国 - ライト兄弟
- 日本 - 二宮忠八
- ラングレイ (CV-1)